2010/03/18

git-clone-port

memo

github.com で公開されてるプロジェクトを clone したい時
TCP 9418
が出て行くのを許可されてないと clone できない。

2010/03/16

The Catcher in the Rye

「The Catcher in the Rye」by J.D. Salinger
は二人の訳者によって日本語に訳されています。

ISBN: 978-4-560-07051-2 | ライ麦畑でつかまえて | J.D.サリンジャー | 野崎孝訳
ISBN: 978-4-560-04764-4 | The Catcher in the Rye | J.D.サリンジャー | 村上春樹訳

下記は、両者の相違を通しイチ読者としての勝手で野暮な感想を述べたものです。

1) 書き出し
野崎孝訳 p.5

もしも君が、ほんとうにこの話を聞きたいんならばだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったかとか、そういった<<デーヴィッド•カパーフィールド>>式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、

村上春樹訳 p.5

こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド•カッパーフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。


2003年春。村上春樹訳の「The Catcher in the Rye」のこの冒頭の1行目を目にした時、この本は私がかつて読んだあの「ライ麦畑でつかまえて」とマルッキリ!違う本だぞと瞬時に認識しました。正直に言うと、みてはいけないものをみてしまった感に襲われました。その日からあっというまに何年か経過してしまいました。

サリンジャーのこの作品についてふれることは私にはちょっとヘビーなので、できれば永久に避けたいと思っていましたが村上春樹訳「The Catcher in the Rye」が手元にあったことで何かが変わりました。

2) 走ることへの衝動
野崎孝訳 p.11

何のために駆けたりなんかしたのか、自分でもよくわかんないーたぶん、なんということもなく、ただ駆けたくて駆けたんだろう。
いやあ、スペンサー先生の家につくが早いか、いきなり僕はベルを鳴らしたね。

村上春樹訳 p.12

なんでわざわざ走らなくちゃならないのか、自分でもそのへんはよくわからないけど、たぶんただ走りたかったんじゃないかな。
やれやれ、やっとの思いでスペンサー先生の家にたどり着くと、僕はすごい勢いで玄関のベルを鳴らした。


この文の前後ははしょりましたが、主人公はまるで10歳くらいの子どものように突然走り出します。冬の寒い日、ふいに何かに背中を押されれたかのようにして、ぶったおれるかと思うくらいの勢いで走り出すわけですが、村上春樹氏の訳はこの年頃のこの感覚をすっかり忘れてしまったか、もともとそれを知らない人(たぶん走るのが好きじゃなかった人)が訳したかのような印象をうけます。

村上春樹氏が書いた小説の中に、貧乏を経験したことのある人間かそうでないかはそれを知っている人間にはすぐわかる(正確にはこのとおりではない)、
といったようなことを主人公に語らせている作品が確かあったと思うのですが...もう子どもじゃないと自覚してるのに、無性に駆け出したくなったことがある人間か、そうでないかは、この訳の違いを読むとわかるような気がします。

3) 会話
野崎孝訳 p.52

「おれにわかるはずないだろ。どいてくれ。おまえ、おれのタオルに坐ってるじゃねえか」と、ストライドレイターは言った。僕は奴の間抜けなタオルの上に坐ってたんだ。

村上春樹訳 p.56

「よくわからねよ、そんなこと。とにかくそこをどいてくれよ。お前な、俺のタオルの上に座ってるんだぜ」とストライドレイターは言った。僕はたしかに彼のくだらないタオルの上に座っていた。


奴の間抜けなタオルがいかに間抜けになるか?はストライドレイターにいかにカッカして言い放ってもらうか、にかかっていると思います。そして奴の間抜けなタオルにはちゃんと間抜けになってもらってコールフィールド的な笑いを読者に受け止めてもらわないと、ここではなにもかもが台無しなんだと思います。
で、野崎孝訳では「...じゃねえか」と「...坐ってたんだ」がその役割を果たしています。

が、村上春樹訳では、「... に座ってるんだぜ」と、...ぜ、が使われていることと、その直前に「とにかく」って単語が加わることでストライドレイターのカッカが薄く間延びしたものになってしまっています。また「僕はたしかに...」と「たしかに」って単語が加わることで、間抜けなタオルの間抜けさは間抜けでもなんでもないただの退屈なタオルになりさがってしまってます。この感覚。
コールフィールド特有の奴に対するワライはすべってませんか?

4) 時間に関するジョーク
野崎孝訳 p.59

...まるでこっちが恩恵を施されてるみたいな感じなんだ。
奴は支度するのに、五時間ばかしかかった。

村上春樹訳 p.64

... 君はきっとアックリーの方がこっちに恩恵を施していると思うだろうよ。
アックリーが出かける支度をするのに、だいたい五時間かかった。


この抜粋された文だけを、今、生まれて初めて目にした方はアックリーが支度をするのに5時間かかったのが、ジョークだなんてピンとこないんだろうけれども、最初からこの作品を読んできている読者にはこれがコールフィールドのジョークだとすぐにわかります。野崎孝訳においては。
村上春樹訳によってこの作品を初めて読んでいる読者が、これがジョークだとすぐにわかるものなのかどうか、私には疑問です。

他にもこれと同じように、実際とは無関係なおおげさな数字が書かれている箇所がいくつかあって、そのたびに読者はちょっとクスッとなります。
野崎孝訳p.312

校長の姿は見えなかったけど、百歳ばかしの年取った女の人が、...

これも同様のパターン。

5) 叫び
野崎孝訳 p.84

「ガッポリ眠れ、低能野郎ども!」

村上春樹訳 p.89

「ぐっすり眠れ、うすのろども!」


おそらく、読者はここで一旦お茶をいれるか一旦本を閉じるか、俺も(or私も)寝るわと電気を消すなどすると思うんだけども
「ああ、ガッポリ寝るわ、豚のようにね」(笑)
などと冗談を言いかえしたくなるのは野崎孝訳であって村上春樹訳を読んでいてもそんな気持ちにはなれそうにありません。私は。

ガッポリってところが、ちょっといいわけです。このちょっとした笑い「クスッ」感がとてつもなく大事なのです。どれだけ大事かというと、なにはともあれ、なにをさしおいても大事、としかいいようがありません。しかもそんな馬鹿げた声が静かな廊下にこだましちゃってたところが尚面白いわけです。

このニュアンスを持つか持たないかが両者の大きな違いのようにも感じます。とらえどころが難しいけども決定的な違い。主人公コールフィールドは始終まともな話ができる人と話をすることに飢えていますが、同じ作品を訳したにもかかわらず、村上氏の訳ではその切実感が薄いのはこのあたりにも秘密があるような気もします。

6) 恩師との会話
野崎孝訳 p.284

「英語はどうだった?英語をしくじったなんて言おうものなら、さっさと出て行ってもらうからな。この若き作文の天才め」

村上春樹訳 p.303

「英語の成績はどうだった?もし君が英語を落としたというのなら、すぐさまこの場を退出していただくことになる。なにしろ君は作文に関しては文句なしのエースだったもんな」


野崎孝訳では、さっさと出て行ってもらうからな... と一瞬すごみをきかした先生が、 この...天才め、と言い放つと同時に笑顔になっている様がよく伝わってきます。先生の顔をみながら主人公の顔も少しほほえんでいるのが(視覚的に)よくみえるような気がします。この先生が冗談好きな明るい人間だってことも一瞬に理解できるし、主人公がなぜこの人を訪ねたのかもよくわかります。それで安心して私も主人公が座った椅子の隣にこしかけたい気持ちになります。

しかし村上春樹訳で読むと、この先生、なんともまわりくどい言い方をする人だなって印象を持ちかねません。退場していただく、と品のある言い方で書かれているせいか先生の陽気さが半減してしまってます。読者である私はそこに同席したいなど感じません。
これでは、なぜ主人公がこの人に会いにやってきたのかが読者に伝わりにくいのではなかろうか?と心配になります。

この文によって、読者はなぜ主人公はこの人に会いにやってきたのかを知ることができるので、ここは話の構成上でも重要なんじゃないかと思います。
その後、この恩師の家を出ていくことになる出来事とのギャップを浮き彫りにする上でも大切に感じます。

...

全体を通して、村上春樹訳では重要な何かが「ガッポリ」ぬけおちているように感じます。単語の多さとまるで反比例しているのは興味深いところです。

野崎孝訳ではコールフィールド独特のささやかな笑いや、ちょっとした気の利いた言い回しなんかによって、この少年がどういう人物かってことが読者には手にとるようにわかるようになっていると、私は思うのですが、そのあたりのおもしろみが村上訳からは消えさってしまっているように思います。

たとえば「やれやれ」って言葉を村上春樹氏の小説の中に登場する主人公が口にした時、それはまるで彼によく似合う服のようだから、読んでいてなんのさしさわりも感じないし、むしろほどよく彼の気持ちが伝わってきます。こういう時にこういう感じ方をするのが彼なんだなとぐっと彼に近づきますが、サリンジャーの主人公は「やれやれ」が似合うような主人公じゃないと思うんです。決して。彼はそんなにクールでもないし。

ディケンズの名作をくだらないって言ってのけちゃう少年。しいていえば、夏目漱石なんてくだらない、あたりまえだろって言っている少年と同じなわけです。
日本語の「やれやれ」が持つニュアンスを多少の笑いを含んで言えるような人物が、
「その手のデイヴィッド•カッパーフィールド的なしょうもないあれこれ...」
あるいは
「そういった<<デーヴィッド•カパーフィールド>>式のくだんないこと」
と、斬って捨てるような言い方をするだろうか?と、違和感を感じます。
例えば「そういった<<坊ちゃん>>的なくだらないこと...」
などとは、そういう人は言わない、いや、言えないんじゃないのかな。

だから、そもそも「やれやれ」などとコールフィールドが心の中で口にすることができていたのなら、この小説自体生まれなかったんじゃないの?とも思うのです。「やれやれ」と心の中でつぶやきつつその場をやりすごすことができるかできないか、そのハードルを超えるか超えないかの、違い。そのハードルこそがコールフィールドにとってはとてつもなく巨大で重要で真っ暗な出来事として描かれていると、私は思うので、そこをまるっきり無視しちゃっうのならこの作品の存在自体を否定しかねないのではないか?と考えてしまいます。
実際、野崎孝氏は一度も「やれやれ」なんて使わないで訳を完了させてしまってますしね。ところどころ言葉遣いの古さは否めないけど。

私は作品の主人公とほぼ同年齢に野崎孝氏訳の「ライ麦畑でつかまえて」に巡り会えてよかったと思ってます。大人になってからこの作品を読んだ人の感想をどこかで信用していない悪い癖がついてしまったのは、それはしかたのないことだと言いかねないほど。

2010/03/08

NASAが...

NASAが1000日後にアバターを月に送り込む予定
によると

もしヒューマロイドを月に送り込み、科学者達自身での探索が可能になったら、それは全ての科学者を実際に月に送り込むのと同じくらいの意味があります
。科学者達が彼ら自身で探索し研究の対象となるサンプルを探すことができるのです。遠隔操作はほんの3秒くらいのタイムラグだそうですよ。

だそうだ。

ヒューマロイドがロビイになったりしませんように。
ディヴになったりしませんように。
ハーヴィーになったりしませんように。
どうかロボットデカルトさまになったりしませんように^^;

instance_variable

http://ujihisa.blogspot.com/2009/12/left-hand-values-in-ruby.htmlを読んで試してみたこと。

  1 #!/usr/local/bin/ruby191
  2 # coding: utf-8
  3 
  4 class Diary
  5   def initialize
  6     @title, @date = nil, nil
  7   end
  8   alias [] instance_variable_get
  9   #alias []= instance_variable_set
 10   def []=(i, v)
 11     instance_variable_set(i, v) if i_defined?(i)
 12   end
 13   def i_defined?(i)
 14     instance_variable_defined?(i)
 15   end
 16 end
 17 
 18 d = Diary.new
 19 d['@title'] = "NewTitle"
 20 d['@date'] = Time.local(2010,02,01)
 21 d['@ddd'] = 'ddd'
 22 p d['@title']
 23 p d
 24 # =>
 25 # "NewTitle"
 26 #<Diary:0xxxx @title="NewTitle", @date=2010-02-01 00:00:00 +0900>


initialize をとりさり i_defined? もとりさってみる

 29 class Diary
 30   alias [] instance_variable_get # instance_variable_defined?
 31   alias []= instance_variable_set
 32 end
 33 
 34 d = Diary.new
 35 d['@title'] = "NewTitle"
 36 d['@date'] = Time.local(2010,02,01)
 37 p d

% ./try.rb
#<Diary:0xxxx @title="NewTitle", @date=2010-02-01 00:00:00 +0900>

勉強になった。

self.instance_variable_set
にしなくちゃいけないと思っていた。
instance_variable_set
だけで動くなんて知らなかった!

alias [] instance_variable_get
これでinstance の値をとれるなんて!

instance_variable_get
のところを
alias [] instance_variable_defined?
に変えてみたら値をとるかわりに定義されているか否かを true or false で返してくれた!びっくり。

alias [] instance_variable_get
alias []= instance_variable_set
alias [] instance_variable_defined?

のようなことをしてみたくなったが
[] methods
は1度使ってしまったら2個目は使えない。の overwrite されちゃう。あたりまえかも。
1回目の [] と
2回目の [] を
区別させる方法はない? ぽい。

2010/03/04

部分変更重要

入門Git のp.57-58 を読みながら試してみたこと

# 複数のファイルが git diff に表示されていた場合、git add -p する際にファイル名を指定することもできた。
% git add -p filename
% git add -p
してすぐにリターンするとヘルプをみることができた。

思い通りに hunk が分かれていなかった場合は s 選択するとより細かく分割してくれるようだ。今回のコミットに反映したい箇所は y で反映したくない時は n。 q で終了。

% git diff --cached
今からコミットする内容を確認

% git commit -v
変更箇所の詳細内容をみながらコミット文を作成できる。書式ルールは

1行目が要約文
2行目空行
3行目以降に詳細文

これからは要点と合致した commit を心がけようと思った。