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2011/09/02

George Orwell

『新装版 オーウェル評論集2 水晶の精神』| ジョージ•オーウェル | 平凡社ライブラー | 978-4-582-76688-2
# 2009.11.10 初版第一版
# 新装版は全部で4冊の文庫。
本の扉にはこう記されている。

本書は、『水晶の精神ーオーウェル評論集2』(平凡社ライブラリー、1995年)を改題した新装版です。


この夏、福島原発事故を契機に益々顕著になった情報欠如について、これは一体どのような事なのかを探るべく、また、自身のある種の混乱を整頓する必要にもかられ、これら4冊に収められた評論をランダムに読み直してみた。一流のシェフの味、そんな本だった。

信じたくないくらい衝撃的なことは、下記の文章は1945 年に書かれたものなのに、なぜ今の日本について語っているのだろう?ってことだ。要は世界は60年以上前と変わっていないし歴史は繰り返されているし、悪い意味でのナショナリズムは生き続けているばかりか増殖している証拠なのだろうかね。

P.52 - P.53
客観的真実の無視は、世界の一部から遮断することによっていっそう助長される。そのために、現実に何が起こっているかを知ることがいよいよ困難になるからである。非常な重大事についてさえ疑いが持たれる場合がしばしば生じる。たとえば、この戦争から生じた死者の数にしても、百万単位、千万単位でもはっきりつかむことができない。いろんな惨事ー...を聞かされているうちに、一般の人にはその現実感が薄れてしまうのである。事実を確認する方法を持たず、それが実際起こったことかどうかも十分確信が持てず、それぞれの方面からそれぞれまったく違った解釈をいつも与えられる。...(略)ドイツがポーランドに作ったといわれるガス室というのは本当だったのだろうか?

...(略)おそらく真相は発見できるのだろうが、ほとんどの新聞でも事実が非常にゆがめられて報ぜられるのだから、一般読者が嘘を丸呑みにしたり、判断を下しえなかったとしても、しかたがない。実際はどうなのかだれも確信がもてないとなると、いよいよ気違いじみた信念にすがってゆくことになる。なに一つはっきり立証もされなければ否認もされないとなると、明々白々たる事実までがずうずうしく否定される。のみならず、ナショナリストはたえず権力や勝利や敗北や復讐を考えているくせに、しばしば、現実の世界で起こっていることにある程度無関心になる。

〜ナショナリズム覚え書き(1945年)〜より


新聞報道のありさまを嘆きつつ、一般読者が判断を下し得なかったとしてもいた仕方ない、と述べられた上で事実までが否定されている、とある。これでは、まるで今の日本そのものではないか...。

ところでオーウェルが「ナショナリズム」をどう捉えていたのか?について、
この記事を目にしてしまった方に誤解を与えないよう留意することは、引用させてもらった者の最低限の礼儀だと思うので、下記の引用も添える。

P.35-P.36
...現在ではほとんどあらゆる問題についての私たちの考えを左右するほど広まっていながら、まだ名前のついていないひとつの精神的習慣がある。それにもっとも近いものとして私は「ナショナリズム」という言葉を選んでみたが、しかしすぐおわかりになるように、私は必ずしも普通に使われている通りの意味でそれを使っているのではない。...
私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神習慣である。*1
しかし第二にはーそしてこの方がずっと重要なのだがー自己をひとつの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす。
ナショナリズムと愛国心とを混同してはならない。通常どちらも非常に漠然とした意味で使われているので、どんな定義を下しても必ずどこかから文句が出そうだが、しかし両者ははっきり区別しなければならない。というのは、そこには二つの異なった、むしろ正反対の概念が含まれているからである。私が「愛国心」と言う場合、自分では世界中でいちばんよいものだとは信じるが他人にまで押しつけようとは思わない。特定の地域と特定の生活様式に対する献身を意味する。愛国心は軍事的な意味でも文化的な意味でも本来防御的なものである。それに反して、ナショナリズムは権力欲と切り離すことができない。すべてのナショナリストの不断の目標は、より大きな勢力、より大きな威信を獲得すること、といってもそれは自己のためではなく、彼がそこに自己の存在を没入させることを誓った国なり何なりの単位のために獲得することである。


一応、引用しておいたが、今の私にとってオーウェルがナショナリズムをどう捉えていたかは、おおきな問題じゃない。(1年前だったらそうじゃなかったかもしれないが...) 第二次世界大戦終戦時イギリスに住んでいた作家が、新聞や映画を通して肌で感じたこと、その感触が、今の日本の新聞やテレビから受ける印象とまるっきり同じである、ってこと。この事実の方がずっとずっと重い。歴史は繰り返されている。

1945年、生活に追われこの戦争はなんなのかを知らされないまま、帰らない人を待ち続けていた人々と同じように、今、日本でも生活に追われてあの福島の事故で何がどうなったのか?今どうなっているのか?を知らされないまま、テレビや新聞を疑う事もしないで、インターネットで情報を得ようとしない(できない)人たちがいる。
彼らにとっての当たり前は、節電する事であり、物理学的には確かで当たり前だったはずの事が、不確かで曖昧で人によって見解が異なるので誰にもわかんない仕方のない事に成り下がることだ。
今も大気中への放射性物質の拡散は止まっていないし海へも大量に流れており、このような海洋への流出は人類初だというのに。

『この国の「問題点」』| 上杉 隆 | 大和書房 | 978-4-479-39211-8
の中で上杉氏は

P.24
ちなみに、東電主催によるマスコミ接待中国ツアーは氷山の一角に過ぎません。東電は毎週のように、記者クラブ幹部を飲食やゴルフでもてなしていたわけです。「原発は安全である」ということをテレビや新聞を使って国民にアピールするためです。また東電が加入している電気事業連合会は、記者クラブメディアの大型スポンサーになっています。その広告費の総額は毎年800億円以上を計上しています。しかも接待費はこれとは別です。

マスコミの人々が「なぜ?」をなぜ自主的に追求できない単純ルーチンに陥ったままなのか、そのからくりを指摘してくれている。
上杉氏のような人々がインターネットには大勢いることによって、かろうじて1945年のオーウェルの時代よりはましな環境にある、とはいえ、それでも、いざインターネットのない状態におかれたら、一瞬にして情報から遠ざかりまるで原発事故など発生していなかったかのように、放射性物質など飛んでいないのだぞと、集団催眠にかけられたごとく危機感を麻痺させられ、テレビは放射線測定されたかどうかもわからないような福島の野菜をみんなで食べよう!と煽る。
台風情報だけは鬼の首をとったごとく熱心なくせに、放射性物質拡散予想がリアルタイムで報じられたためしがない。

これが先進国だ、情報立国だと声高らかに自称してきた日本のありさま。血税で作られたスーパーコンピューターはなんの役にもたたないほど、それほどお粗末なものだったのだろうか?一体なんの為の誰の為のコンピューターだったのか?。お金をかけて整備されていたはずのスピーディも「より大きな威信を獲得すること」だけが目的のサクラだったのか?。

最後に強く印象に残った箇所も引用する。

P.84
常識的な法則が日常生活や若干の精密科学の場においては、通用するけれども、政治家や歴史家や社会学者からはかまわず無視されるという、分裂症的な思想体系を組み立てるだろう。

P.84
問題についての展望を失わないようにこの評論の冒頭で述べたことをくり返しておこう。すなわち、イギリスにおいての真実の、したがってまた思想の自由の直接の敵は、新聞や映画を牛耳っている者たちと官僚である。
しかし長い目でみれば、知識人たち自身の間における自由への希求の衰えがもっとも深刻な兆候である。

P.93
知的自由の破壊は、ジャーナリスト、社会問題評論家、歴史家、小説家、批評家、詩人から、この順序で活動力をそぐ。

P.98
いまのところ全体主義国家は、必要に迫られて科学者を寛大に扱っている。ナチス•ドイツにおいてさえ、ユダヤ人以外の科学者は比較的好遇(ママ)を受け、ドイツの科学界は全体としてヒトラーになんらの抵抗も示さなかったのである。
...(略)
金で買われた精神は毒された精神であるという事実を克服することはできない。
...(略)
いまのところわれわれにわかっているのは、想像力が、ある種の野生動物と同じように、捕われの状態では繁殖しないだろうということだけである。その事実を否定する作家やジャーナリストは...事実上自らの破滅を要求しているのである。

〜文学の禁圧(1946年)〜より


いずれは、自らの破滅を要求している。オーウェルの鋭いこの指摘が、
日本の新聞社(東京新聞などの心ある一部の報道人を除く)やテレビ局やあらゆる「マス」メディアに携わる人々、
また、立派な肩書きをお持ちになり自分がひとたび何かを発信すればすぐにでも多くの人々に事実が伝わるであろうと自覚のある方々に、
届くことを願う。
...と書きながら矢野顕子さんがカバーした「右手」を思い出す。
〜僕らの右手はどこまであげれば、誰かに届くかって〜
なんとも言いようのない気持ちにもなる。

# キーワード:
# ドイツzdf frontal21 福島原発事故
# などで Google 検索すると海外メディアが伝える福島原発事故に関する動画(日本語字幕付き)がヒットするはずです。

「シュピーゲル」誌(2011年5月23日号) 「原子力国家」日本語訳 | ジャーナリスト上杉隆 -公式ウェブサイト- takashi uesugi - official web site
http://uesugitakashi.com/?p=917

原発Tweets #Genpatsu 紙
http://paper.li/malilin/1302845303#!technology

[2011-09-03] 加筆修正。

2011/06/27

キュレーションの時代

キュレーションの時代 | 佐々木俊尚 | 筑摩書房 | 978-4-48-006591-9

わたしは twitter も facebook も使っていないが全体として非常に面白く興味をもって読んだ。ただ疑問が残るところがあった。

以下「情報の真贋」について述べられている箇所の引用。

p.204
情報の真贋なんてだれにもみきわめられない

p.205-p.206
考えてもみてください。
すでにある一次情報をもとにしているプログだったら、「その論理展開は変だ」「ロジックが間違ってる」という指摘はできます。たとえば「日本で自殺者が増えているのは、大企業が社員を使い捨てしているからだ」とかいうエントリーがあれば、自殺増加の原因についていろんな議論ができるでしょう。...
(略)...逆に、誰にも検証できないような一次情報が書かれている場合、それってどう判断すればよいのか。
(略)...だから、「真贋をみきわめる」という能力は、そもそもだれにも育まれようがないというのがごく当たり前の結論だったわけです。

p.207
つまり「事実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、それにくらべれば「人の信頼度をみきわめること」の方ははるかに容易であるということなのです。

p.242
一次情報を発信することよりも、その情報が持つ意味、その情報が持つ可能性、その情報が持つ「あなただけにとっての価値」、そういうコンテキストを付与できる存在の方が重要性を増してきているということなのです。


下記感想。

第一に、p.242 ここで一次情報を発するよりも重要だとされているコンテキスト(つまりそれは二次情報、三次情報だと受け止めてもいいと思うが)それらが一次情報と「比較され」「重要」だと論じられている点。

コンテキストの重要性は決して一次情報を軽んじている訳では「ない」と理解しているつもりだが...、
例えば、ゴッホの絵よりもゴッホの絵を発掘した人の方が重要なのか?
例えば Google が提供する「サービス」と Google のフィルターを通して出現した「検索結果」を構成する情報、これらはどちらがより重要か?を論じた場合、にわとりが大事か卵が大事かに陥るのでは?情報とはなにかについて考えた方が精神衛生上よいのではないだろうか。

第二に、わたしたちは、例えば Google がなかった頃一次情報に辿りつくことができなかった永遠の漂流者だったんだろうか?
そんなことはないと思う。確かに Google のおかげで飛躍的に楽になったが、Google がない時代でも一次情報が存在している限りは、また探す気力がある限りはどうにか辿り着けていたんじゃないのかな。時間を要する時もあったけど...。

第三に、わたしたちは、果たして「情報の真贋」をみきわめられない存在なのだろうか?
「そもそもだれにも育まれようがない」と結論づけてしまう(p.206)のは過剰なのでは?と思う。
# この件について 『CODE 2 』でも語られている思うけれども私は読了できていない。
仮に佐々木氏の言うように、みきわめられないとして、じゃあその者は信頼できる人物(p.207)とやらをみきわめられるんだろうか?
実際、情報の真贋をみきわめるのは難しい時もある。実際、情報ハブ的人物の情報をありがたく享受することも多々ある、けれども真贋をみきわめる能力は育まれないと結論づけてしまうのはそれは何か重要なものを放棄することにならないだろうか?

あえてここでちょっと意地悪な仮定を試みてみよう。
もしも、わたしたち社会を構成する[全員]が氏の述べるような「情報の真贋をみきわめられない」存在であると仮定するならば、重大な矛盾を内包することになる。つまり、一次情報発信者自身も、佐々木氏が述べるキュレーター自身も、情報の真贋がみきわめられない存在だという矛盾に陥ることになってしまう...。

美の構成学

美の構成学 | 三井秀樹 | 中公新書 | 978-4-12-101296-8

第一章「構成学とデザイン」は
主にバウハウスの歴史について語られ
第二章「構成学と造形」
主に構成学の歴史
第三章「造形の秩序」
黄金比、シンメトリーについて
第四章「くらしの中の構成学」
暮らしの中にある美について
第5章「新しい構成学」では
これからの構成学についてテクノロジーとの関係が述べられている。

p.123
構成学は芸術やデザインの専門家のためにだけあるのではなく、日々の生活に活かしてこそ意味があり、私たち自身がそれぞれ美意識をもち快適な生活を送るための生活美学であると位置づけて欲しい。

p.151
このようにバウハウスで確立した造形の基礎概念を柱とする構成学は、モホリ•ナギからケペッシュの視覚言語論を経て、ネグロポンテのマン•マシン•インターフェイスという人間とコンピュータの情報理論を加えた、つまり視覚の世界から視覚+情報の情報認知科学の分野へ領域が拡がってきたといえる。


本を読み終えて。
なぜ、アスファルトの色はよりによってこんな灰色なんだろうと、子供の頃真剣に思い悩んでいたことを思い出した。できたてのアスファルトの道は灰色というより黒に近い。けれど時間がたつとともに少しづつ白い絵の具を重ねて塗ったように灰色に近づいていく。そして町中がこの灰色の道におおわれている。
私はこの状態につよい不満を感じていた。なぜもっときれいな色じゃないんだろう。どうせならもっと美しい色にしてくれていたら道を歩くのはもっと楽しいのに。あるいは真っ白だったらどれだけ気持ちいいだろう。ビルや工場もそうだ。なぜ灰色なんだろう。どうせならもっときれいな色にしてくれたら町が明るくなるのに。なぜ大人は灰色が好きなんだ?
子供の私がこの疑問を口に出して大人に聞いてみることはなかった。まともに相手にされることはないだろうと思ったから。
今、私はこの疑問に対する妥当な答えを持ち合わせていない。
なぜ日本の道路でアスファルトが使われ続けているのか歴史的経緯を調べることはできたとしても...
当時の大人たちもこんなこと聞かれたらさぞかし困ったことだろう...。

2010/10/14

全体主義

『全体主義』 / エンツォ•トラヴェルソ / 平凡社新書 / 9784582855227
の感想。

P.22 

マックス•ヴェーバーが「合法的支配権」(legale Herrschaft)と定義したものの完全な否定に行きつく。言い換えれば<犯罪国家>の登場である。
だが、全体主義は、文明のパラダイムとは正反対の退行的非合理主義を、歴史の舞台に立たせたのではない。
それはむしろ、西洋近代のただなかを流れる<反=合理主義>を展開し、その破壊力のすべてを悲劇的なかたちで露にしたのである。


当時のドイツは法治国家だった。選挙だってあったし、人々は今の私たちと同じように迷信ではない「歴史」を知りえた。
人権思想だってとうの昔に誕生していたのだし、地球がだいたい丸いことも人々は知ってた。はず。
けれども、あれよあれよという間に恐ろしい事態が人々を支配してしまった。
その坂を転げ落ちていくような悲惨な出来事に対し、ヴェーバーだけじゃない、カントやヘーゲルも何もかも、
それまでに培われたはずの「合理的」な人類の叡智などなんの役にも立たなかった。
そればかりか、むしろその「合理性」がアダになってしまった。

では、合理性をも利用する全体主義の正体とは何なのか?

P.101 からの引用

カール•ヤスパースは、全体主義を、共産主義やファシズムをはるかに超えた現象として、「どの体制よりも普遍的であり、人類の未来にのしかかる<文明>の脅威である」と述べている。


確かに全体主義は時代を超越してる。ようだ。
ある時代では奴隷制、またある時代では魔女狩りや宗教裁判、強制労働、大虐殺。
ある国ではいまだに!言論統制、一党独裁。
各地での焚書も全体主義的現象と呼べるし、日本でも長く続いた江戸時代を全体主義の時代として捉え直すことは十分可能だろう。
徳川による独占支配、五人組による相互監視制、士農工商エタ非人のピラミッド構造、踏み絵、人質を強要し謀反を抑圧する参勤交代...etc.
『一九八四年』は江戸時代の日本において既に実現してたってわけだ。

P.106

ベネデット•クローチェは、
...(略)
その結論に彼はこう書いた。...
決して忘れてはいけない。ギリシャ=ローマにはじまる文明の凋落という以上に、さらに途方もなく重大な何かが起ることを。...
人類は、自然に対して、人間本性に対して巨大な罪を背負い、あらゆる腐敗の保管者たる思想自体を堕落させて死滅するだろう。

クローチェはいつか死滅するだろうと警告している。

ニ千年以上にわたって、世界各地で発生した(している)あらゆる人権侵害や大規模犯罪は、
封建制だとか植民地主義だとか帝国主義だとか資本主義だとか共産主義だとか
まるでてんでばらばらな呼び方に隠蔽され教えられる羽目に陥っているわけだけども、
結局、みえてくるものは、
その社会が全体主義的かどうか「だけ」なのかもしれない。極論だけど。
# どの程度、その社会が全体主義的か?それは測定できるようなものなのか?は、さておき
# 全体主義的現象に共通する特徴についてはこの本でも言及されてる。
思うに...
全体主義的現象の発生を許してしまう「共通必要条件」のようなものはあるのでしょうか。
また、時として、概念による制度的枠組みなど、特定の恣意が影響力を持ちうるような現実においては、無意味の烙印を押されるに等しくむなしく儚い。
といえなくもないのであれば、制度って何?

ところで、今、「正義について」考えたりディスカッションすることは有意義なのだろうけど、
合理性を善とする西洋哲学が全体主義に対して非力であったと同時に、結果的には理論加担させられた歴史を無視したまま、
あたかも絶対的善や絶対的正義が、独立して是とされるような倫理観が助長されるようであれば、あれば、
仮にだよ!あくまでも仮定として仮にそうであった場合(春樹的method)...
それは、いかに合理性が全体主義に利用できるかのロジックを図らずも暴露し、再正当化してしまう滑稽な議論にもなりかねないかも。
などと思った。

#『 これからの「正義」の話をしよう』ISBN 9784152091314

2010/03/16

The Catcher in the Rye

「The Catcher in the Rye」by J.D. Salinger
は二人の訳者によって日本語に訳されています。

ISBN: 978-4-560-07051-2 | ライ麦畑でつかまえて | J.D.サリンジャー | 野崎孝訳
ISBN: 978-4-560-04764-4 | The Catcher in the Rye | J.D.サリンジャー | 村上春樹訳

下記は、両者の相違を通しイチ読者としての勝手で野暮な感想を述べたものです。

1) 書き出し
野崎孝訳 p.5

もしも君が、ほんとうにこの話を聞きたいんならばだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったかとか、そういった<<デーヴィッド•カパーフィールド>>式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、

村上春樹訳 p.5

こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド•カッパーフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。


2003年春。村上春樹訳の「The Catcher in the Rye」のこの冒頭の1行目を目にした時、この本は私がかつて読んだあの「ライ麦畑でつかまえて」とマルッキリ!違う本だぞと瞬時に認識しました。正直に言うと、みてはいけないものをみてしまった感に襲われました。その日からあっというまに何年か経過してしまいました。

サリンジャーのこの作品についてふれることは私にはちょっとヘビーなので、できれば永久に避けたいと思っていましたが村上春樹訳「The Catcher in the Rye」が手元にあったことで何かが変わりました。

2) 走ることへの衝動
野崎孝訳 p.11

何のために駆けたりなんかしたのか、自分でもよくわかんないーたぶん、なんということもなく、ただ駆けたくて駆けたんだろう。
いやあ、スペンサー先生の家につくが早いか、いきなり僕はベルを鳴らしたね。

村上春樹訳 p.12

なんでわざわざ走らなくちゃならないのか、自分でもそのへんはよくわからないけど、たぶんただ走りたかったんじゃないかな。
やれやれ、やっとの思いでスペンサー先生の家にたどり着くと、僕はすごい勢いで玄関のベルを鳴らした。


この文の前後ははしょりましたが、主人公はまるで10歳くらいの子どものように突然走り出します。冬の寒い日、ふいに何かに背中を押されれたかのようにして、ぶったおれるかと思うくらいの勢いで走り出すわけですが、村上春樹氏の訳はこの年頃のこの感覚をすっかり忘れてしまったか、もともとそれを知らない人(たぶん走るのが好きじゃなかった人)が訳したかのような印象をうけます。

村上春樹氏が書いた小説の中に、貧乏を経験したことのある人間かそうでないかはそれを知っている人間にはすぐわかる(正確にはこのとおりではない)、
といったようなことを主人公に語らせている作品が確かあったと思うのですが...もう子どもじゃないと自覚してるのに、無性に駆け出したくなったことがある人間か、そうでないかは、この訳の違いを読むとわかるような気がします。

3) 会話
野崎孝訳 p.52

「おれにわかるはずないだろ。どいてくれ。おまえ、おれのタオルに坐ってるじゃねえか」と、ストライドレイターは言った。僕は奴の間抜けなタオルの上に坐ってたんだ。

村上春樹訳 p.56

「よくわからねよ、そんなこと。とにかくそこをどいてくれよ。お前な、俺のタオルの上に座ってるんだぜ」とストライドレイターは言った。僕はたしかに彼のくだらないタオルの上に座っていた。


奴の間抜けなタオルがいかに間抜けになるか?はストライドレイターにいかにカッカして言い放ってもらうか、にかかっていると思います。そして奴の間抜けなタオルにはちゃんと間抜けになってもらってコールフィールド的な笑いを読者に受け止めてもらわないと、ここではなにもかもが台無しなんだと思います。
で、野崎孝訳では「...じゃねえか」と「...坐ってたんだ」がその役割を果たしています。

が、村上春樹訳では、「... に座ってるんだぜ」と、...ぜ、が使われていることと、その直前に「とにかく」って単語が加わることでストライドレイターのカッカが薄く間延びしたものになってしまっています。また「僕はたしかに...」と「たしかに」って単語が加わることで、間抜けなタオルの間抜けさは間抜けでもなんでもないただの退屈なタオルになりさがってしまってます。この感覚。
コールフィールド特有の奴に対するワライはすべってませんか?

4) 時間に関するジョーク
野崎孝訳 p.59

...まるでこっちが恩恵を施されてるみたいな感じなんだ。
奴は支度するのに、五時間ばかしかかった。

村上春樹訳 p.64

... 君はきっとアックリーの方がこっちに恩恵を施していると思うだろうよ。
アックリーが出かける支度をするのに、だいたい五時間かかった。


この抜粋された文だけを、今、生まれて初めて目にした方はアックリーが支度をするのに5時間かかったのが、ジョークだなんてピンとこないんだろうけれども、最初からこの作品を読んできている読者にはこれがコールフィールドのジョークだとすぐにわかります。野崎孝訳においては。
村上春樹訳によってこの作品を初めて読んでいる読者が、これがジョークだとすぐにわかるものなのかどうか、私には疑問です。

他にもこれと同じように、実際とは無関係なおおげさな数字が書かれている箇所がいくつかあって、そのたびに読者はちょっとクスッとなります。
野崎孝訳p.312

校長の姿は見えなかったけど、百歳ばかしの年取った女の人が、...

これも同様のパターン。

5) 叫び
野崎孝訳 p.84

「ガッポリ眠れ、低能野郎ども!」

村上春樹訳 p.89

「ぐっすり眠れ、うすのろども!」


おそらく、読者はここで一旦お茶をいれるか一旦本を閉じるか、俺も(or私も)寝るわと電気を消すなどすると思うんだけども
「ああ、ガッポリ寝るわ、豚のようにね」(笑)
などと冗談を言いかえしたくなるのは野崎孝訳であって村上春樹訳を読んでいてもそんな気持ちにはなれそうにありません。私は。

ガッポリってところが、ちょっといいわけです。このちょっとした笑い「クスッ」感がとてつもなく大事なのです。どれだけ大事かというと、なにはともあれ、なにをさしおいても大事、としかいいようがありません。しかもそんな馬鹿げた声が静かな廊下にこだましちゃってたところが尚面白いわけです。

このニュアンスを持つか持たないかが両者の大きな違いのようにも感じます。とらえどころが難しいけども決定的な違い。主人公コールフィールドは始終まともな話ができる人と話をすることに飢えていますが、同じ作品を訳したにもかかわらず、村上氏の訳ではその切実感が薄いのはこのあたりにも秘密があるような気もします。

6) 恩師との会話
野崎孝訳 p.284

「英語はどうだった?英語をしくじったなんて言おうものなら、さっさと出て行ってもらうからな。この若き作文の天才め」

村上春樹訳 p.303

「英語の成績はどうだった?もし君が英語を落としたというのなら、すぐさまこの場を退出していただくことになる。なにしろ君は作文に関しては文句なしのエースだったもんな」


野崎孝訳では、さっさと出て行ってもらうからな... と一瞬すごみをきかした先生が、 この...天才め、と言い放つと同時に笑顔になっている様がよく伝わってきます。先生の顔をみながら主人公の顔も少しほほえんでいるのが(視覚的に)よくみえるような気がします。この先生が冗談好きな明るい人間だってことも一瞬に理解できるし、主人公がなぜこの人を訪ねたのかもよくわかります。それで安心して私も主人公が座った椅子の隣にこしかけたい気持ちになります。

しかし村上春樹訳で読むと、この先生、なんともまわりくどい言い方をする人だなって印象を持ちかねません。退場していただく、と品のある言い方で書かれているせいか先生の陽気さが半減してしまってます。読者である私はそこに同席したいなど感じません。
これでは、なぜ主人公がこの人に会いにやってきたのかが読者に伝わりにくいのではなかろうか?と心配になります。

この文によって、読者はなぜ主人公はこの人に会いにやってきたのかを知ることができるので、ここは話の構成上でも重要なんじゃないかと思います。
その後、この恩師の家を出ていくことになる出来事とのギャップを浮き彫りにする上でも大切に感じます。

...

全体を通して、村上春樹訳では重要な何かが「ガッポリ」ぬけおちているように感じます。単語の多さとまるで反比例しているのは興味深いところです。

野崎孝訳ではコールフィールド独特のささやかな笑いや、ちょっとした気の利いた言い回しなんかによって、この少年がどういう人物かってことが読者には手にとるようにわかるようになっていると、私は思うのですが、そのあたりのおもしろみが村上訳からは消えさってしまっているように思います。

たとえば「やれやれ」って言葉を村上春樹氏の小説の中に登場する主人公が口にした時、それはまるで彼によく似合う服のようだから、読んでいてなんのさしさわりも感じないし、むしろほどよく彼の気持ちが伝わってきます。こういう時にこういう感じ方をするのが彼なんだなとぐっと彼に近づきますが、サリンジャーの主人公は「やれやれ」が似合うような主人公じゃないと思うんです。決して。彼はそんなにクールでもないし。

ディケンズの名作をくだらないって言ってのけちゃう少年。しいていえば、夏目漱石なんてくだらない、あたりまえだろって言っている少年と同じなわけです。
日本語の「やれやれ」が持つニュアンスを多少の笑いを含んで言えるような人物が、
「その手のデイヴィッド•カッパーフィールド的なしょうもないあれこれ...」
あるいは
「そういった<<デーヴィッド•カパーフィールド>>式のくだんないこと」
と、斬って捨てるような言い方をするだろうか?と、違和感を感じます。
例えば「そういった<<坊ちゃん>>的なくだらないこと...」
などとは、そういう人は言わない、いや、言えないんじゃないのかな。

だから、そもそも「やれやれ」などとコールフィールドが心の中で口にすることができていたのなら、この小説自体生まれなかったんじゃないの?とも思うのです。「やれやれ」と心の中でつぶやきつつその場をやりすごすことができるかできないか、そのハードルを超えるか超えないかの、違い。そのハードルこそがコールフィールドにとってはとてつもなく巨大で重要で真っ暗な出来事として描かれていると、私は思うので、そこをまるっきり無視しちゃっうのならこの作品の存在自体を否定しかねないのではないか?と考えてしまいます。
実際、野崎孝氏は一度も「やれやれ」なんて使わないで訳を完了させてしまってますしね。ところどころ言葉遣いの古さは否めないけど。

私は作品の主人公とほぼ同年齢に野崎孝氏訳の「ライ麦畑でつかまえて」に巡り会えてよかったと思ってます。大人になってからこの作品を読んだ人の感想をどこかで信用していない悪い癖がついてしまったのは、それはしかたのないことだと言いかねないほど。

2010/01/14

google は中国を Free にする?

すばらしい news。
Googleにとっての中国: 人権うんぬんよりも世界でのビジネスが第一

中国を含む各国版のGoogleで「天安門事件」を画像検索するとどうなるのか?
関連するnews
<http://news.google.co.jp/news/more?pz=1&cf=all&ned=jp&ncl=d-eIca1RL6XFYMMoNLA9_rbSH7SAM&topic=h>

結果的にどう転ぶにせよ、ビジネスが第一であろうとも、Google の決断はすばらしいと思いました。

それにひきかえ、こちらはすばらしくない news。
そのすばらしくない news の中のすばらしい情報。さすがは...。
大手出版社21社、「日本電子書籍出版社協会」を立ち上げ。Amazonに対抗?
どの意見もえぐい。その中でもことさら際立っていた意見。

「経済産業省の皆様に理事として天下っていただくためのハコを用意いたしました。つきましては、物書き風情がわれわれに歯向かって勝手に電子化などできないようにしてアマゾンを潰してください」
って読むんだよ。

まさにこのとおりなんだろう。
でも基本的に今の日本で著作権者の契約の自由を侵害する権利は認められないはずなので、とーぜん限定された範囲内(既に出版されている著作物)のことなんだろう。と、信じていたい。

他の場所で「これはカルテルだ」と言っている人もみかけたような気もするがわたしの気のせいかもしれない。

2010/01/07

Kindle DX

Kindle DXのニュース検索結果

日本は電子ブック戦争になぜ敗れたのか
http://ascii.jp/elem/000/000/487/487838/
ふーん pdf よめない?
あれ、こっちには読めるとあった。

読めるの読めないのどっち?ってことはあとでゆっくり調べることにして、

それにしても、最初の ascii の記事2ページ目で気になったこと

しかし電子ブックには在庫リスクなんてないのだから、こんな不合理なシステムを守る必要はない。それなのに彼らはアマゾンの参入を求めようとしない...


この文章の意味、私にはさっぱりわかりませぬ。
彼らって取り次ぎのこと?
アマゾンの参入をもとめようとしない?はぁ?
アマゾンさんも取り次ぎ業一緒にはじめませんか?楽しいですよって営業にいくの?なあほなね。
それともアマゾンさん、商品全部全部 すべからく取り次ぎとーしてくださいよっ!て言うってこと?まさかね。

ま、どうでもいけど、
ここでいわれてる不合理なシステム、すなわち再販制度にとっては、kindle は黒船以外の何者でもないのでしょうね。

あんまりなんでちょっと追記。(2010-01-08)

第一に
Kindle の物理的な特徴は、アマゾンに参入を求めるとか「認めるとか認めないとか」、そんな従来の井戸の中の蛙的価値観の枠の中で語ることを不可能至らしめてしまうであろうこと、そして Kindle の日本上陸とは、そういったレベルの出来事なんだってこと、を池田氏はちゃんと認識しているのかな?と疑問を持ってます。

第二に不合理なシステム(再販制度)を持つ業界と電気産業とは基本的に別々の業界である以上、書籍の再販制度の不合理な点と、電気産業が独自の規格で我の支配を広げたがる話とは、似ているようで全く似ていない似て非なる話なのに、それをごっちゃにして日本側陣営のようにしてる点でも、首をかしげてしまってます。
むしろ、不合理なシステムが不合理であることはえらい昔からわかってたことなので、それを変えることができないまま今日に至っているのは、なぜなのかにきりこんで欲しかったです。

第三に日本は取り残されると心配する心情は理解できなくもないけれども、ダイナミックな本の歴史の流れからみれば、そんな心配はささいな支流にすぎず、電気産業に肩入れしただけの単なる杞憂にすぎないと思う。Kindle のもたらす影響を考えれば 電機メーカー心配するより出版業界心配すべきだろ、とあきれています。
日本の再販制度 vs アメリカ発電子本屋の市場競争の行く末は、どちらかが許容するだの認めるだのなんてあまっちょろいもんじゃないでしょうに。

それに電子ブック戦争はこの日本ではこれからはじまるのだから、日本の電機メーカーが敗れたって言ってしまう(記事のタイトルにおいて)のは早すぎる結論なんじゃないのかな。Sony は先進的すぎて成功できなかったかもしれないけど日本においては今がチャンス到来なわけですし。
もっとも、電子ブック戦争といえば、Apple の未来のデバイス vs Kindle を意味するようになっている時代がくるのかもしれません。

とまれ、池田氏のトーンは時代の変化を受け入れているように読めるので、その点「だけ」は好感を持ってます。

2009/10/30

Book.new('1Q84')

村上春樹の『1Q84』が世間に投げかけた何かを仮に x として読者が感じ取ったものを仮に k とする。
k は抽象的概念を並べたものでもありキーワードの束のようなものとする。

これを Ruby で表現してみると

  1 # coding: utf-8
  2 
  3 class Book
  4 
  5   attr_reader :name
  6   attr_accessor :x
  7   
  8   def initialize(name)
  9     @name = name
 10     @x = nil
 11   end
 12   
 13 end
 14 
 15 class Reader
 16 
 17   attr_reader :booklist
 18   
 19   def initialize
 20     @booklist = Hash.new
 21   end
 22   
 23   def read(book)
 24     @book = book
 25     return self
 26   end
 27   
 28   def image(*k)
 29     @booklist[@book.name] = k
 30   end
 31   
 32 end
 33
 34 book1 = Book.new('1Q84-1')
 35 book2 = Book.new('1Q84-2')
 36 
 37 i = Reader.new
 38 i.read(book1).image('science','nation','man')
 39 i.read(book2).image('religious','language','female')
 40 p i.booklist


実行結果

# =>
# {"1Q84-1"=>["science", "nation", "man"], "1Q84-2"=>["religious", "language", "female"]}


@x には値を付与できるし値を読み取ることもできる。けれども値を付与できるのは作者以外にいない。そして Reader class は直接 @x の値を読み取る手段をもたない。@booklist の values は読者の抱いた感想に基づくキーワード群。それぞれ何かと対をなしていて二項対立とも同一概念の表裏とも光と陰とも言えるような値にしておいた。あえて加えなかったけれども Author class を作るとしたらそこには作者が値が付与できる @booklist があるはずだ。それは作家の頭の中にしか存在しないものなんだろうけど。

作ってみて一番面白かったのは、25行目 return self。 これは i.read(book).image('xxx') と記したかった為に必要だったからなにげなく書いたんだけど def read が self を返す(or 返す必要がある)なんて! ちょっとリアルな感じがした。

'science' のかわりに 'mathematic' の方がふさわしいような気もするし
'nation' のかわりに 'force' とすべきなのかなと迷った。
'female' のかわりに 'child', 'man' のかわりに 'soldier' にしてもよいような気もした。

『1Q84』を読み終えた読者が実際今何人なのか?なんて知る由もないが、仮にすべての読者が抱いたキーワードを全て寄せ集めることができたのなら、この本が抱えるキーワードの束は膨大な数になるんだろうなー。そして時間経過とともに読者数累計は増加してキーワードのエントロピーは増大していく。翻訳される言語が増えればなおさら...。それにキーワードはただ増えるだけじゃなく他の本とどんどんと繋がっていく。

たとえば
『知識人とは何か』( Edward W. Said / 平凡社 / 978-4582762365 )
に 『 若き日の芸術家の肖像 』( Joyce James )
からの引用がある。

p.46

「きみには、ぼくがすることと、しないことをおしえてあげよう。ぼくは自分で、もう信じていないもの、それを家庭と呼ぼうが、祖国と呼ぼうが、教会と呼ぼうが勝手だけれども、そういうものに仕えるつもりはない。ぼくがやってみたいのは、人生とか芸術をとおして、自分自身を、できるかぎり自由に、できるかぎりそこなうことなく表現することなんだ。そのため、自分をまもるのに使う武器は、三つにかぎることにするー沈黙、亡命、そして狡知」。


ここにある3つの単語は、『1Q84』が発する何かと強烈に結びついているように思えてならない。
狡知に対応するものが 'science' or 'mathematic'
亡命に対応するものが 'nation'
沈黙に対応するものが 'language'

それにしても、と思う。たくさんの小説家が巨大な渦に流され溺れてしまわないための自衛策についてあらゆるかたちで書き残してる。それこそ「そこなうことなく」しるされてる。

修正: 'femail' => 'female'

悪霊にさいなまれる世界

悪霊にさいなまれる世界 上 / Carl Sagan / 早川書房 / 978-4150503567
悪霊にさいなまれる世界 下 / Carl Sagan /早川書房 / 978-4150503574

この文庫本は2000年に「人はなぜエセ科学に騙されるのか」というタイトルで出版された作品で2009年7月に文庫化されたもの。

訳者の青木薫氏が「訳者あとがきに代えて」の中で

これまでも、たびたび、自ら行李を背負い、一冊一冊行商して歩きたいぐらいだと冗談めかして言ってきたが、実はそれは本音である。

と述べているのが印象深かった。

この訳者が手がけた本は過去にいくつか読んだことがある。どれも非常に面白かった。面白いばかりでなく「読者の1人として尊重されている」とすら感じた。
それはどういうことかというと....

科学分野の本(一般市場に流通する書籍)を書く人たちは、一般人への配慮に欠いていることがある。なぜならその方がより的確な単語を使用できるし効率的に話を進めることができるであろう、から。そこには本が作られる最初から一般人との境界線がある。そのような本は専門書店にだけ置いてあるわけではなく普通の書店にも並べられているので、私が何かの間違いで購入してしまった時、その都度私は自分を落第生だと改めて思い知らされマラソンを走る最後のランナーだと感じてきた。じっさい世の中は私にとって難しい本でみちみちているし。
たまには運良く少し理解できるようになることも稀にある。それはよほど意識的に関連本を探したり、うなりながら何度も繰り返し読んでみたり違う方向から探ってみることなしにはありえない。こういった読者の姿勢は独習することそのものだからそのように学ぶことを、億劫がったり嫌悪するべきではない、という考えは当然なことだとも思うけれども、一方で、難しいことをわかりやすい文章で説明し多くの人が理解しやすい内容の本に出会ってしまうと、なんというか、やっぱり深く感動する。小説を読み終わった後の感動となにも違わない。

そういった意味で「暗号解読」など青木薫氏が訳された一連の本は、読者である私に落第生だと感じさせるような真似は一切しなかった。私は最後まで興味深いマラソンを完走できてしまった。文系人間(高校生の時に文系か理系かの選択を迫られて文系を選択したという意味)の私でも科学ジャンルの本の面白さにフル参加できた...。これは当時非常に稀なことだった。この喜びは本の面白さともあいまって二重の楽しさを私にもたらしてくれた。ひとえに作者の人と訳者の人がわかりやすい文章を用意してくれたおかげだ。そこには科学者でも研究者でもないごく普通の一般人を尊重し信頼する気持ちが根底に流れているように感じた。だから、読者である私は

「読者として尊重されている」

と、思った。
(最近福岡伸一氏の著作にも同じ印象を持っている)

...以上のような経緯があり
この人が訳す本は面白いと認識している。そして実際今回も期待以上に面白かった。この本にこめられたカールセーガンさんの気合いと根気強さには驚くばかりだった。

懐疑的な精神を培うことは民主主義的な思考と矛盾しない。むしろ大切なことのようだ。加えて、もしもあなたが今なお数学や科学に対して文学や音楽に対するのと同じような興味や関心を抱けないでいるのなら、それはあなたの人生にとっても人類の歴史にとってもマイナスでしかない、とカールセーガンさんは言っているんだと思う。たとえこの本を手に取る人が何歳であろうともそんなことは全くおかまいなしに、知るとは科学的とはどういうことかについて改めて立ち止まって考えるべき機会を全ての読者に与えてくれると思う。愚かな権力者に対してストッパーとして役割を果たせるのは、結局1人1人の科学的な視点およびその総体なんだろうと思った。

nationalgeographic.co.jp

怠惰への讃歌-1

怠惰への讃歌 / Bertrand Russell / 平凡社 / 978-4-582-76676-9

新聞の書評欄に紹介されていたのを読んで(確か10月半ばあたり)珍しく素直に購入してみた。第四章まで読んだ

この本は、平凡社から2009/08/10 付けで出版されたものだが本の最初のページに 「1958年に角川文庫から刊行されたもの」だと記されている。作者のバートランド•ラッセル氏は数学者としても知られている人。

第1章 1932 年
第9章 1929 年
第10章 1930 年
第11章 1933 年
第13章 1928 年
第15章 1928 年

とあり1928年から1933年のあいだに書かれたもののようだ。

第一章で1日4時間労働説を読んだ。これにはちょとしたカルチャーショックをうけた。この説はたとえこの本に興味がない人でも知っていて損はないと思う。
そして、それにもまして興味深かったのが下記。

p.72

この気狂いじみた状態に対し、気狂いじみた解決を考えついた。ドイツに、ドイツが支払わなければならないものは何でも貸すときめたられたのである。
連合国が結局いいわたしたことはこうである。「私たちは、賠償をお前らから免除してやるわけにはいかぬ。というのは、それはお前たちの犯した罪悪に対する正当な罰であるからだ。さてまた、私たちは賠償を支払わせるようにしてやることはできない。そうすると、私たちの産業を破壊するからである。それで、私たちはお前たちに金を貸そう。そして私たちが貸したものをお前たちが返却するようにさせよう。この方法によると、原則は守られて、しかも私たちに損害はないだろう。お前たちに及ぶ損害についていえば、それをただ後まわししようと考えているだけだ」。だがいうまでもなく、この解決は、その場限りのものにすぎなかった。...


これはひどい話だと思った。

「インフレーション」という単語をガッコーのキョーカショではじめて目にした時、大量のお札を荷車にのせてそれを引っ張る老婆の白黒写真がそのかたすみに掲載されていたと記憶している。その写真の人はドイツ人だと習った気もする。その程度のことであとはほぼ忘れてしまっているんだけども、ここを読んでへぇーそんなことだったわけ?とちょっと驚いてしまった。ドイツに多額の賠償を負わせた。としか私は認識していなかったから。

p.74

私たちの不幸のもととなったしどろもどろの考え方は、消費者の立場と生産者の立場、もっと正しくいうなら、競争する組織の中の生産者の立場との間に起こった混乱である。賠償がドイツに課せられると、連合国は、自分たちを消費者だと思いこんだ。即ちドイツ人の生産したものを消費することができるのは、いい気持ちだろうと考えた。ところが、ヴェルサイユ条約が結ばれてしまって、彼らが俄に気がついたことは、自分たちも生産者であり、自分たちが求めているドイツの品物が流れ込むと、自分たちの産業が亡ぶだろうということだ。彼らは非常に困ったので、途方にくれ頭をかきはじめたが、何の役にも立たなかった。連合国側は一緒に集まって頭をかき、それを国際会議といってみても何にもならない。正直なところ、世界の支配階級が甚だ無智、愚かであるから、かよな問題を考えぬくこともできず、また甚だ鼻柱が強いから、彼らを助けようとする人々から注意をしてもらおうともしなかった。


え!...。ヴェルサイユ条約についてこんな風に書いてある文章には初めておめにかかった。これがある程度事実に即しているのならば連合国側は相当子供ぽいというか「あなたいくつですか」よばわりされても不思議じゃない程の愚行を行ったことになる。国際会議つったって商店街のおじさんたちの井戸端会議と大差のないような代物だったということにもなる。いや商店街のおじさんたちの方がよっぽど優秀だろうから大差はあるかな。これじゃたまらない気持ちになるし、これが歴史だと思いこまされてきたいくつかのことは詭弁だったのかと疑いたくなってしまう。

戦争がなぜ起きたのかを解説する本はたくさんあるし、何が事実で何が事実でなかったのかをできるかぎり正確に見分けようとするのは結構大変なことなんだけども、だからといってそれは永久に知ることができないものだと決めてかかるのもおかしな話だと、あらためて思ったりもした。

Black Swan

ブラック•スワン[上] / Nassim Nicholas Taleb / ダイヤモンド社 / 978-4478-00125-7
ブラック•スワン[下] / Nassim Nicholas Taleb / ダイヤモンド社 / 978-4478-00888-1
を読んだ。

上巻p.285

ある時...政治オタクを前に話をした。私たちは未来を正しく考えられない、いいかげん思い知れと言って、私は彼らに噛みついた。
お客は縮み上がって黙っていた。私はお前らの信じていることも、やっていることも全部間違いだと言ったのだ。私のほうは自分の客観的な主張に酔っていた。
...宗教会議に集まった枢機卿たちを前にした好戦的な無神論者みたいな気分だった。

とある。

この文章で上巻1冊の全てが言い尽くされているように思った。(ええ、そうですそうです。人は要約が大好き。)残りのページはこの文章を裏付けるための具体例に全て費やされているだけのような気がした。

上巻を読み終えて下巻を買ったことを後悔することってめったにないんだけどもそういう点で珍しい本だった。

読みながらストレスを感じることもあった。たとえば

p.134
私たちが、講釈に陥りがちな大本の原因がある。これは心理的なものではない。むしろ情報の溜め込みや読み込みを行う仕組みが及ぼす影響にかかわることである。確立論や情報理論の根本的な問題だと思うので、ここで説明しておくのがいいだろう。
第一の問題は、情報を手に入れるのにはコストがかかるという点である。....
第二の問題は、情報は溜め込むのにもコストがかかるという点である。...
第三の問題は、情報は複製したり取り出したりするのにもコストがかかるという点である。


とあって
情報理論学の根本的な問題として上記の3つが当然のように書かれてあるんだけども、はたしてそれは誰が言ったことで誰がとりあげていることなのかといった文章がない。情報理論を指さした以上はどういったところでそれが提唱されているかなど書かれるべきだと思うんだけども、そういった最低限の情報はこのページのどこにもない...。ない。

ここで述べられている「コスト」というのは例えばインターネットを使用する上で必要な電気消費量や電線であったり、10年以上前だったら古本屋をうろうろできるだけの脚力や電車代や気力がコストともいえるんだろう。いずれも「コスト」という変数におさまるべき値と想像できる。値が時代の変化によっていかに変化しようとも、情報を手に入れるためにはコストが必要なことにかわりはない。

といった考えをめぐらせ...p.134からp.136で作者が情報理論をとりあげてまで何を伝えたかったのか読み取ろうとしたが、私には困難だった。

この本の最初の方にこの本はエッセイだと述べられているので(上巻p.18)こういったストレスを感じる度に「ああそういえばこの本はエッセイでしたね」といちいち思いだす必要が生じた。

ということで、下巻はざぁーっと流し読みした。
印象に残った箇所としてあげるとすれば、p.63,p.64にあるバートランド•ラッセルの言葉の引用。だが、なんという著作物からの引用なのかは記されていない。これが本当にラッセルの言なのかすら確かめようがない。と思ったら下巻に参考文献一覧がありアルファベット順に人物名とその著書名があった。ラッセルの欄をみると3つの書物の名前が記されてある。けれどもp.63あたりの引用はこの3つのうちのどれからの引用なのかは明記されていない。はて...。

そしてもう一つ印象に残った箇所は
p.87

私はアップルのマッキントッシュを使っている。以前は、長年マイクロソフトの製品を使っていた。アップルの技術のほうがずっといいのに、質の悪いソフトウェアのほうが結局勝っている。どうして? まぐれのせいだ。

だった。

私もまぐれだと思っている。けれども実際に「まぐれだったのかどうか」は私がまぐれだと思うこととは全く「別」のことなんだと一般人の常識程度に理解しているつもり。おそらく、このような私の考え(別物だってこと)は、ナシーム•ニコラス•タレブ氏の主張する「人間は予想以上にバカだ論」とどこまでも交わることがない平行線なんだろうと思われる。

エッセイはそれをまに受けるか受けないかなんてことを考えながら読むべきもんじゃなく余韻を楽しんで読むべきなのですが、とても残念ながらこのエッセイは楽しんで読むには適していないようにみうけられました。

くちなおしとして
悪霊にさいなまれる世界 上 / Carl Sagan / 早川書房 / 978-4150503567
悪霊にさいなまれる世界 下 / Carl Sagan / 早川書房 / 978-4150503574

を読み直すのは有効。

2009/08/01

素数たちの孤独

素数たちの孤独 / パオロ・ジョルダーノ / 早川書房 / 9784152090539

を読んだ。以下とりとめのない感想。

タイトルにひかれて買った読者も多いのだろうと思う。私もそのうちの一人。本屋さんで平積みにされてるのをみかけタイトルに頷いて中身をみることもなくレジに向かってしまった。この本はそんな騒動買いをした読者をがっかりさせないどころじゃない。時間的ロス皆無で素晴らしい本に出会えたのは久しぶり。

あとがきを読んでさらに驚いてしまった。いろいろな意味で。

読み終えた日
http://booklog.kinokuniya.co.jp/ohtake/archives/2009/07/post_47.html
の中でこんな一文をみかけた。

トークのなかで「科学とは何だと思いますか」と斉藤に問われて、福岡は「ことばだと思う」と答え、斉藤も同感だと述べた。


え?!ことばなの?とすごく不思議に思った。よく知らないけどウィトゲンシュタインとかそういう人々の分野が関連してるんだろか。ふと、「素数たちの孤独」を書いた作者にこの意味をものすごくわかりやすく噛み砕いて解説してほしいと思ってしまった。マッティアとアリーチェの二人がこの意味について神妙な顔で話しあってる場面を読んでみたいと強く思ってしまった。

「科学はことば」とは一体なんぞや?書評で取り上げられている本『エレファントム』を読めば即理解できることとは到底思えないし、いかんせん私にとって難解そうな雰囲気がぷんぷん漂っていて二の足を踏む。かといって、とっかかりとなりうる本は『エレファントム』以外に考えられない。
本屋さんでみかけたら一度中身をみてみよう。

やがて哀しき外国語

やがて哀しき外国語 / 村上春樹 / 9784062634373
を読んで。印象的だった箇所いくつか。

p.180

うちの奥さんはトニ・モリスンとウーピー・ゴールドバークがときどき見分けられなくなると言う。困ったものである。


ここ、笑)奥さんにすごい親しみを感じてしまった。もし私だったらあのウーピーがあの本を書いたのか、すごいなって錯覚できちゃっう自信あったりする...。

p.126

「ソー・ホワット」っていう歌を知ってるだろう。あれに歌詞をつけて歌ったんだ。「マイルスがステージから出て行った。ソー・ホワット(だから何だ)?」ってさ」


ロックで「so what」 って歌あったけ。そうそう Pink が歌ってたやつ。 YouTube で初めてみた時、妙におかしくて笑えて仕方なかったのを思いだした。so what って日本語にすると 「で?」に相当するのかな。「それで君は何がいいたいのだ?」といったニュアンスがこめられた「で?」。発音的には「デッ」に近い感じのやつ。ポイントはそのあとじっと相手の目をみつめるところなんだと思う。はっきりいってちょっと攻撃的な印象を与える言葉なんだろうけど、非論理的な話に対して有効に使っている人みると小気味いいことがあったりする。

p.156

でも、居直るわけではないのだけれど、いったい誰の人生が間違っていないのだろう?お前の人生は間違っているとかいないとか、誰に確信を持って断言することができるのだろう?


こういう文に出会うと根拠なく元気もらえる。心の energy はどこからもらえるかわかったもんじゃないってところが面白いしそのぶん脆弱なのよねと思った。

+++ 最近読んだ村上春樹の本 +++

海辺のカフカ,アフターダーク,神の子供たちはみな踊る,TVピープル,東京奇譚集,村上春樹、河合隼雄に会いにいく,スプートニクの恋人,アンダーグランド,約束された場所で,村上春樹『1Q84』をどう読むか

1Q84 をきっかけにしてついつい7月は村上春樹強化月間になってしまった。今も反省してない。

2009/07/07

1Q84

1Q84

1Q84 BOOK 1 / 村上 春樹 / 9784103534228
1Q84 BOOK 2 / 村上 春樹 / 9784103534235
2009-05-29 / 新潮社

+++ 検索してみたことがら

村上春樹 - Wikipedia

ガープの世界 - Wikipedia

安原顕 - Wikipedia

+++ 気になったキーワード

Q.E.D
# 数学の証明
出口なし
# サルトル?
青豆
# 英語にするとグリーンピース?

+++ 感想

p.182 (Book2)

「説明しなくてはそれがわからんというのは、つまり、どれだけ説明してもわからんということだ」

この台詞はちょっと暴力的に感じた。この言葉を実際に使うことが難しい人々がいるとしたら科学者、医者、弁護士、政治家かな。この台詞は、ただ単に物語に登場する人物の考えを雄弁に物語る上で使われているにすぎないのだろうが、それだけじゃない何か大事なことをはっきりと明確に思い出せと読者を促しているようにも読めた。この人物にそれを言わせているんだなと強く感じた。そういった意味で、この小説から受け取るこのようなメッセージは多かった。それらはメッセージなんかじゃないよと、ヒョーロンカの方々が言ったとしてもこの本を書いた当人が言ったとしても、もう遅い。本は本屋で売られた瞬間から作者の手を離れて一人歩きしてるんだから。まるで空気さなぎと同じように。

小説に書かれたことが現実になるなんて...
といった文章がこの本の中で出てくる。そしてリアル世界でもこの本は売れ続けている。変な感じがする。謎が多すぎる。リアルで怖い感がある。気持ち悪さが残る。この小説はホラー小説だったのかな?と納得してみようと思ったけれども、そうするにはあまりにも無理がありすぎる。その方向は間違いなく明後日の方向だろう。作家が世間を煙にまいて高笑いをしているような印象も受けるがそれだけでは納得のいかない怖さがあるのが非常に気になる。ま、こうして読者にあれか?これか?と考えさせることこそが作家の目的だったのなら、それはみごとに成功していますと報告できるわけだけど。

じっくり謎解きを試みるならば...
「ガープの世界」は読み直すべきかなと思った。ふかえりはガープの母親か?と思ったから。「ガープの世界」の中でガープの母親とプーという女性について語られていることは、確か、女性差別を促すのは女性たち自身なのだという論理を連想させるものだったと記憶している。記憶違いじゃなきゃいいんだけど。そのあたりを今一度さぐるべきなのかも。これも明後日の方向である可能性は高いんだけど...。

謎解きから離れて...
本来のまっとうな宗教が果たしてきた社会的役割は大きい。日本では古来からいろんな神様がまつられてきたし江戸時代の間に庶民に浸透したものも多い。にもかかわらず今の日本では宗教について話しあうことが法律で禁止されているかのごとく、人々はそれについて語りたがらないし避ける風潮があり政治と宗教の話を避けるのは大人としてのマナーです。といった習慣がはびこっている。そのためなのかなんなのか分からないけど、おかしなカルトにだまされる「善意ある人々」が多くいる。彼らはだまされていることを知らない。それは一見カルトのようには見えないから善意の人々である彼らはまさか自分がそんなものにお金を貢いでいると意識できないでいる。彼らはその集団に属すことでなにか救済されると誤解し錯覚し続けている。今現在も進行形で。

周囲の人々はこのような人々をまのあたりにしても、彼らに進言したり忠告するのを非常に難しいと感じてしまう。なぜなら日本における人間関係の常識としてそういった事に口を挟むべきではないとする風潮があるから。これはなにもカルトに限った話じゃない。この商品はねずみ講じゃないと主張する「悪気のない」人をまのあたりにした時に「それは立派な鼠講です。今すぐやめた方がいい」と、一体何人の日本人が相手の目をまっすぐ直視して言えるんだろうか?多くの人は今回に限ってそれを買わない旨を言葉を濁しながら相手に伝えるのが精一杯なのではなかろうか。それを口にできない程度の浅い関係なのだとは納得できないままに...。

政治と宗教とねずみ講を論理的に話しあうこと、を一億総勢で避け続けお互いの空気を読み続けてきた結果、そのしっぺ返しとして用意されたものは何か?それはカルトが国をのっとろうと企てていると知らされたことなんじゃなかろうか。why? や No を言わないことを古き良き日本の風潮として温存した結果がこれだったとはね。ブッシュの8年に匹敵するあるいはそれ以上におぞましい事態なのかもしれないと思った。

今は2009年だけど、確かに恐怖の質を変えた1984年はとっくの昔に到来していたのかも。

2009/07/04

アンティキティラ古代のギリシャのコンピュータ

アンティキテラ古代ギリシアのコンピュータ / ジョー・マーチャント / 文藝春秋 / 978-41637-14301

p.247-248
紀元前三世紀に、アリスタルコス(紀元前310-230)という天文学者が、太陽は地球よりも何倍も大きくて重いと考えた。それゆえ太陽が地球のまわりを回っているのではなく、地球が太陽のまわりを回っているのだ。彼はまた、昼と夜が起きるのは、地球が自転しているためだとも考えた。......(結局、十数世紀ものちにケプラーの楕円軌道説が出るまで、太陽中心説はかえりみられなかった。)

およそ1000年以上ものあいだ西洋の人々は現在の天文学の常識とは異なった世界観を前提にしちゃってきたわけだから、今の私たちが「あったりまえじゃん」としているようなことの中にも、未来の人からみたらおかしいと感じることがきっと多々存在しているんだろう、と今更ながらに当たり前のことについて考えていたらなんとも不思議な気持ちになった。
往々にして科学は進化するものだと考えがちだけど、もっと誤った世界観を押し広げて今よりももっともっと退化する可能性だってあるわけで、アリスタルコスがコペルニクス以前のヨーロッパの宇宙観を見知ってしまったら絶望したまま墓の中に舞い戻ったろうし、ニュートン以降の時代にタイムマシンでやってきたら歓喜のあまり失神したかもしれない。
つまり、すごく長い目でみた時、科学の発展はまっすぐな一本道を辿らずに一歩進んで三歩さがる(時には10歩戻る)くらいのぐにゃぐにゃした道を辿って進化してきたってことをこの本は教えてくれる。
ということは、これからもそうだし「今現在」もそうなんだろうと考えるのが自然なんだろうな。たぶん。

2009/06/23

話題の本

うっかり
『1Q84』村上春樹(新潮社) :阿部公彦の書評ブログ

を読んでしまった。失敗した。買いたいと思わないようにちょっと注意していたのに気になって仕方ない。

2009/06/09

数学をつくった人びと

数学をつくった人びと〈1〉 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) / E.T. ベル / 早川書房 / 978-4150-502836

p.34-35

...この本をすみからすみまで理解するのに必要な知識量はどの程度であろうか?それは中学高等学校程度の数学で十分だといってさしつかえない。...あまりに専門的すぎると思った場合には、読み飛ばしてしまうがよい。残りの部分にも報いてあまりあるものがあるということである。..飛ばし読みは、私たちが厳格な先生からおしえられたように罪悪ではなく、常識の教える知恵なのである。...

数学を学ぶにあたってかつてこんなにも力強く励まされたことがかつてあったろうか。難しかったら飛ばして読みなさいと言ってくれた数学の本に出会ったのは初めて。あっ、でも高等学校程度の数学こそおぼつかない私は対象読者範囲外であった。読み飛ばすことでクリアしていく予定。
わかりやすく書き起こされて教科書に掲載されるべき箇所がたくさんあるような気がする。そういえば,どうして算数や数学の教科書には数学そのものの歴史に関する記述がなかったんだろうか。私がちゃんと勉強してなかっただけなのかな。その可能性はかなり高い。
デカルトの話に出くわした。あまりに面白かったので「方法序説」を読みつつ飛ばし読みつつ&道草読み。

方法序説 (岩波文庫) / デカルト / 岩波書店 / 400-336131-8 / creator: Ren´e Descartes & 谷川 多佳子

2009/06/08

一六世紀文化革命

一六世紀文化革命 1 / 山本 義隆 / みすず書房 / 978-46220-72867
一六世紀文化革命 2 / 山本 義隆 / みすず書房 / 978-46220-72874

この本では、
印刷技術の普及、職人によって著された書籍の登場、
蔑まされていた外科医による現実的で有用な情報公開、
商人たちが流布した計算方法と俗語で書かれた数学書の普及と算数教育、
宗教改革、大航海時代
ナショナリズムによる自国語の発展
...
といった出来事を取り上げラテン語以外は許容されなかった「神聖なる」学問がいかにして変貌し、中世ヨーロッパにおける医学、数学、科学、芸術や哲学などのあり方がどのように変化しその要因や引き金となったものは何だったのか?が膨大な資料と史料に基づいて丹念に追求されている。
著者は、
p.29

「16世紀文化革命」はひとつの仮説であり、それが十分に論証されているかどうかは、読者の判断に委ねたい。

と読者に判断を委ねているので読み終えた読者として是非とも判断してみたいところだが、例えば反証可能かどうかといった科学的な視点が社会学や歴史学の分野においてどのように反映されるべきかなのかは、今もって社会学的にはわからないことなのだろうしましてや一介の読者が判断できることではないと思った。
けれど、判断はつかないものの当時の常識がいかにして覆されていったかをこの本を通じて知ることができたのは個人的に楽しい読書体験であったし、あとがきに記された今の科学のあり方についての著者の主張はとても斬新で貴重な意見なんだと思う。
とくに読み応えがあったのは9章と10章だった。
なぜルターの宗教改革は世間に行き渡るに至ったのか?なぜそれが可能だったに関して...
p.577

一五一七年秋に...マルティン・ルター(1483ー1546)は...「九五ヶ条提題」を発表した。これは宗教改革の発端と言われるが、それは後から見た判断で、ルターはこれをラテン語で書いたのである。

p.582-p.583

カトリック教会は、ラテン語でかかれているかぎりにおいては新発見を報じる書物でも認可し、反対に学者が誰にでも理解される国語で自説を世に広めようとすると、
ただちに告発する場合が多かった。

とあった。ルターが最初にラテン語を用いたのは賢い選択であり処刑を免れるための手段だったのかもしれない。この本を読むまでは真実に目を向けた書が彼ら(カトリック教会の人々)の標的になったのだと思っていたがそればかりではなかったようだ。では俗語で書かれていたという事実そのものがなぜそこまで彼らの怒りを買ったのか?
p.630 に、ラテン語における「文書」という単語の意味についてふれられている。

ラテン語の'auctoritas' は「信ずべきこと」と「権威」の他に「文書」の意味をもつが、文書化されていることはとりもなさず権威を有し、したがってまた「信ずるに値すること」や「信ずべきこと」とされていたのである。

この定義によると内容として権威などとは無関係の内容の書籍であったとしても、書籍になった時点で権威を有する、あるいは有する恐れがあり信ずるに値するということになってしまうのだろう。全くナンセンスな話で子供すらだませないような話だが、この単語の意味がどれだけの影響力を持っていたかを想像することは、教会が一体何を恐れていたかを理解する上で非常に重要な点だと思った。つまるところ、単語の意味づけは社会規範を決定し人の行動と言語活動を制約し、権力者たちにとってはその権力維持を持続する上で重要な手段として活用すべきことでもあったと理解できる。現在もなお、この驚くほど古びた権力維持手段を利用している国があるのはとても残念で滑稽なことだと思う。
10章後半では、ついに学問を追求する上でラテン語で書かれている必要はないと明確に書かれた書籍の紹介に至る。情報公開性の重要性と公共性について言及した文章からは、暗黒のラテン語時代の終焉を迎えようとする人々の未来への希望がひしひしと伝わってきて静かに感動した。また、現在のインターネット上での情報公開性に受け継がれているモラルの発祥のようにも読み取れるのもとても興味深かった。そして、今後、インターネット上でこれまで存在していなかったデータが公開されていく中で何かが大きく変化していく時、そのさなかにいる私たちは案外それをはっきりと認識できない可能性の方が高いのかもしれない、とふと思ったりもした。
2009.06.09 脱字修正

2009/06/03

音楽は自由にする

Book / 音楽は自由にする / 坂本龍一 / 新潮社 / 978-41041-06028

大変面白い本でした。読み終えてみるとおぼっちゃまといったイメージを勝手にもっていたのは不思議なくらい。どういった経緯であれ、すごい曲をつくり続ける人々にまたそれらを聴ける幸せにいつまでも感謝していたいものです。先生とお友達だった話やYMO 誕生の時3人はこたつを囲んでいたって話には笑えました。
こちらも聴いてみた。どれもこれも何度聴いてもびっくりする曲ばかり収録されていてよかった。ただベートーベンのやつは最後の第三楽章が欠けていたのでちょっと寂しかった。

CD / グレン・グールド 坂本龍一セレクション/ グールド(グレン) / SMJ(SME)(M) / 4547366042269

2009/04/09

宇宙の果てを探る-誕生から地球外生命体まで

宇宙の果てを探る-誕生から地球外生命体まで (COLOR新書y) (新書y) / 二間瀬 敏史 / 洋泉社 / 978-48624-83485

小さい本なので読む時に腕が疲れないし持ち運びに便利。素晴らしい写真が多く収録されている。ほぉーと眺めてるだけで楽しい。
まだ科学的に明らかにされていない事がらについて簡潔に述べられている。
# 2009.04.10 テスト投稿改め
# 2009.05.10 category 変更
# 2009-05-16 category 変更