2011/09/02

George Orwell

『新装版 オーウェル評論集2 水晶の精神』| ジョージ•オーウェル | 平凡社ライブラー | 978-4-582-76688-2
# 2009.11.10 初版第一版
# 新装版は全部で4冊の文庫。
本の扉にはこう記されている。

本書は、『水晶の精神ーオーウェル評論集2』(平凡社ライブラリー、1995年)を改題した新装版です。


この夏、福島原発事故を契機に益々顕著になった情報欠如について、これは一体どのような事なのかを探るべく、また、自身のある種の混乱を整頓する必要にもかられ、これら4冊に収められた評論をランダムに読み直してみた。一流のシェフの味、そんな本だった。

信じたくないくらい衝撃的なことは、下記の文章は1945 年に書かれたものなのに、なぜ今の日本について語っているのだろう?ってことだ。要は世界は60年以上前と変わっていないし歴史は繰り返されているし、悪い意味でのナショナリズムは生き続けているばかりか増殖している証拠なのだろうかね。

P.52 - P.53
客観的真実の無視は、世界の一部から遮断することによっていっそう助長される。そのために、現実に何が起こっているかを知ることがいよいよ困難になるからである。非常な重大事についてさえ疑いが持たれる場合がしばしば生じる。たとえば、この戦争から生じた死者の数にしても、百万単位、千万単位でもはっきりつかむことができない。いろんな惨事ー...を聞かされているうちに、一般の人にはその現実感が薄れてしまうのである。事実を確認する方法を持たず、それが実際起こったことかどうかも十分確信が持てず、それぞれの方面からそれぞれまったく違った解釈をいつも与えられる。...(略)ドイツがポーランドに作ったといわれるガス室というのは本当だったのだろうか?

...(略)おそらく真相は発見できるのだろうが、ほとんどの新聞でも事実が非常にゆがめられて報ぜられるのだから、一般読者が嘘を丸呑みにしたり、判断を下しえなかったとしても、しかたがない。実際はどうなのかだれも確信がもてないとなると、いよいよ気違いじみた信念にすがってゆくことになる。なに一つはっきり立証もされなければ否認もされないとなると、明々白々たる事実までがずうずうしく否定される。のみならず、ナショナリストはたえず権力や勝利や敗北や復讐を考えているくせに、しばしば、現実の世界で起こっていることにある程度無関心になる。

〜ナショナリズム覚え書き(1945年)〜より


新聞報道のありさまを嘆きつつ、一般読者が判断を下し得なかったとしてもいた仕方ない、と述べられた上で事実までが否定されている、とある。これでは、まるで今の日本そのものではないか...。

ところでオーウェルが「ナショナリズム」をどう捉えていたのか?について、
この記事を目にしてしまった方に誤解を与えないよう留意することは、引用させてもらった者の最低限の礼儀だと思うので、下記の引用も添える。

P.35-P.36
...現在ではほとんどあらゆる問題についての私たちの考えを左右するほど広まっていながら、まだ名前のついていないひとつの精神的習慣がある。それにもっとも近いものとして私は「ナショナリズム」という言葉を選んでみたが、しかしすぐおわかりになるように、私は必ずしも普通に使われている通りの意味でそれを使っているのではない。...
私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神習慣である。*1
しかし第二にはーそしてこの方がずっと重要なのだがー自己をひとつの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす。
ナショナリズムと愛国心とを混同してはならない。通常どちらも非常に漠然とした意味で使われているので、どんな定義を下しても必ずどこかから文句が出そうだが、しかし両者ははっきり区別しなければならない。というのは、そこには二つの異なった、むしろ正反対の概念が含まれているからである。私が「愛国心」と言う場合、自分では世界中でいちばんよいものだとは信じるが他人にまで押しつけようとは思わない。特定の地域と特定の生活様式に対する献身を意味する。愛国心は軍事的な意味でも文化的な意味でも本来防御的なものである。それに反して、ナショナリズムは権力欲と切り離すことができない。すべてのナショナリストの不断の目標は、より大きな勢力、より大きな威信を獲得すること、といってもそれは自己のためではなく、彼がそこに自己の存在を没入させることを誓った国なり何なりの単位のために獲得することである。


一応、引用しておいたが、今の私にとってオーウェルがナショナリズムをどう捉えていたかは、おおきな問題じゃない。(1年前だったらそうじゃなかったかもしれないが...) 第二次世界大戦終戦時イギリスに住んでいた作家が、新聞や映画を通して肌で感じたこと、その感触が、今の日本の新聞やテレビから受ける印象とまるっきり同じである、ってこと。この事実の方がずっとずっと重い。歴史は繰り返されている。

1945年、生活に追われこの戦争はなんなのかを知らされないまま、帰らない人を待ち続けていた人々と同じように、今、日本でも生活に追われてあの福島の事故で何がどうなったのか?今どうなっているのか?を知らされないまま、テレビや新聞を疑う事もしないで、インターネットで情報を得ようとしない(できない)人たちがいる。
彼らにとっての当たり前は、節電する事であり、物理学的には確かで当たり前だったはずの事が、不確かで曖昧で人によって見解が異なるので誰にもわかんない仕方のない事に成り下がることだ。
今も大気中への放射性物質の拡散は止まっていないし海へも大量に流れており、このような海洋への流出は人類初だというのに。

『この国の「問題点」』| 上杉 隆 | 大和書房 | 978-4-479-39211-8
の中で上杉氏は

P.24
ちなみに、東電主催によるマスコミ接待中国ツアーは氷山の一角に過ぎません。東電は毎週のように、記者クラブ幹部を飲食やゴルフでもてなしていたわけです。「原発は安全である」ということをテレビや新聞を使って国民にアピールするためです。また東電が加入している電気事業連合会は、記者クラブメディアの大型スポンサーになっています。その広告費の総額は毎年800億円以上を計上しています。しかも接待費はこれとは別です。

マスコミの人々が「なぜ?」をなぜ自主的に追求できない単純ルーチンに陥ったままなのか、そのからくりを指摘してくれている。
上杉氏のような人々がインターネットには大勢いることによって、かろうじて1945年のオーウェルの時代よりはましな環境にある、とはいえ、それでも、いざインターネットのない状態におかれたら、一瞬にして情報から遠ざかりまるで原発事故など発生していなかったかのように、放射性物質など飛んでいないのだぞと、集団催眠にかけられたごとく危機感を麻痺させられ、テレビは放射線測定されたかどうかもわからないような福島の野菜をみんなで食べよう!と煽る。
台風情報だけは鬼の首をとったごとく熱心なくせに、放射性物質拡散予想がリアルタイムで報じられたためしがない。

これが先進国だ、情報立国だと声高らかに自称してきた日本のありさま。血税で作られたスーパーコンピューターはなんの役にもたたないほど、それほどお粗末なものだったのだろうか?一体なんの為の誰の為のコンピューターだったのか?。お金をかけて整備されていたはずのスピーディも「より大きな威信を獲得すること」だけが目的のサクラだったのか?。

最後に強く印象に残った箇所も引用する。

P.84
常識的な法則が日常生活や若干の精密科学の場においては、通用するけれども、政治家や歴史家や社会学者からはかまわず無視されるという、分裂症的な思想体系を組み立てるだろう。

P.84
問題についての展望を失わないようにこの評論の冒頭で述べたことをくり返しておこう。すなわち、イギリスにおいての真実の、したがってまた思想の自由の直接の敵は、新聞や映画を牛耳っている者たちと官僚である。
しかし長い目でみれば、知識人たち自身の間における自由への希求の衰えがもっとも深刻な兆候である。

P.93
知的自由の破壊は、ジャーナリスト、社会問題評論家、歴史家、小説家、批評家、詩人から、この順序で活動力をそぐ。

P.98
いまのところ全体主義国家は、必要に迫られて科学者を寛大に扱っている。ナチス•ドイツにおいてさえ、ユダヤ人以外の科学者は比較的好遇(ママ)を受け、ドイツの科学界は全体としてヒトラーになんらの抵抗も示さなかったのである。
...(略)
金で買われた精神は毒された精神であるという事実を克服することはできない。
...(略)
いまのところわれわれにわかっているのは、想像力が、ある種の野生動物と同じように、捕われの状態では繁殖しないだろうということだけである。その事実を否定する作家やジャーナリストは...事実上自らの破滅を要求しているのである。

〜文学の禁圧(1946年)〜より


いずれは、自らの破滅を要求している。オーウェルの鋭いこの指摘が、
日本の新聞社(東京新聞などの心ある一部の報道人を除く)やテレビ局やあらゆる「マス」メディアに携わる人々、
また、立派な肩書きをお持ちになり自分がひとたび何かを発信すればすぐにでも多くの人々に事実が伝わるであろうと自覚のある方々に、
届くことを願う。
...と書きながら矢野顕子さんがカバーした「右手」を思い出す。
〜僕らの右手はどこまであげれば、誰かに届くかって〜
なんとも言いようのない気持ちにもなる。

# キーワード:
# ドイツzdf frontal21 福島原発事故
# などで Google 検索すると海外メディアが伝える福島原発事故に関する動画(日本語字幕付き)がヒットするはずです。

「シュピーゲル」誌(2011年5月23日号) 「原子力国家」日本語訳 | ジャーナリスト上杉隆 -公式ウェブサイト- takashi uesugi - official web site
http://uesugitakashi.com/?p=917

原発Tweets #Genpatsu 紙
http://paper.li/malilin/1302845303#!technology

[2011-09-03] 加筆修正。

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