キュレーションの時代 | 佐々木俊尚 | 筑摩書房 | 978-4-48-006591-9
わたしは twitter も facebook も使っていないが全体として非常に面白く興味をもって読んだ。ただ疑問が残るところがあった。
以下「情報の真贋」について述べられている箇所の引用。
p.204
情報の真贋なんてだれにもみきわめられない
p.205-p.206
考えてもみてください。
すでにある一次情報をもとにしているプログだったら、「その論理展開は変だ」「ロジックが間違ってる」という指摘はできます。たとえば「日本で自殺者が増えているのは、大企業が社員を使い捨てしているからだ」とかいうエントリーがあれば、自殺増加の原因についていろんな議論ができるでしょう。...
(略)...逆に、誰にも検証できないような一次情報が書かれている場合、それってどう判断すればよいのか。
(略)...だから、「真贋をみきわめる」という能力は、そもそもだれにも育まれようがないというのがごく当たり前の結論だったわけです。
p.207
つまり「事実の真贋をみきわめること」は難しいけれども、それにくらべれば「人の信頼度をみきわめること」の方ははるかに容易であるということなのです。
p.242
一次情報を発信することよりも、その情報が持つ意味、その情報が持つ可能性、その情報が持つ「あなただけにとっての価値」、そういうコンテキストを付与できる存在の方が重要性を増してきているということなのです。
下記感想。
第一に、p.242 ここで一次情報を発するよりも重要だとされているコンテキスト(つまりそれは二次情報、三次情報だと受け止めてもいいと思うが)それらが一次情報と「比較され」「重要」だと論じられている点。
コンテキストの重要性は決して一次情報を軽んじている訳では「ない」と理解しているつもりだが...、
例えば、ゴッホの絵よりもゴッホの絵を発掘した人の方が重要なのか?
例えば Google が提供する「サービス」と Google のフィルターを通して出現した「検索結果」を構成する情報、これらはどちらがより重要か?を論じた場合、にわとりが大事か卵が大事かに陥るのでは?情報とはなにかについて考えた方が精神衛生上よいのではないだろうか。
第二に、わたしたちは、例えば Google がなかった頃一次情報に辿りつくことができなかった永遠の漂流者だったんだろうか?
そんなことはないと思う。確かに Google のおかげで飛躍的に楽になったが、Google がない時代でも一次情報が存在している限りは、また探す気力がある限りはどうにか辿り着けていたんじゃないのかな。時間を要する時もあったけど...。
第三に、わたしたちは、果たして「情報の真贋」をみきわめられない存在なのだろうか?
「そもそもだれにも育まれようがない」と結論づけてしまう(p.206)のは過剰なのでは?と思う。
# この件について 『CODE 2 』でも語られている思うけれども私は読了できていない。
仮に佐々木氏の言うように、みきわめられないとして、じゃあその者は信頼できる人物(p.207)とやらをみきわめられるんだろうか?
実際、情報の真贋をみきわめるのは難しい時もある。実際、情報ハブ的人物の情報をありがたく享受することも多々ある、けれども真贋をみきわめる能力は育まれないと結論づけてしまうのはそれは何か重要なものを放棄することにならないだろうか?
あえてここでちょっと意地悪な仮定を試みてみよう。
もしも、わたしたち社会を構成する[全員]が氏の述べるような「情報の真贋をみきわめられない」存在であると仮定するならば、重大な矛盾を内包することになる。つまり、一次情報発信者自身も、佐々木氏が述べるキュレーター自身も、情報の真贋がみきわめられない存在だという矛盾に陥ることになってしまう...。
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