2009/06/08

一六世紀文化革命

一六世紀文化革命 1 / 山本 義隆 / みすず書房 / 978-46220-72867
一六世紀文化革命 2 / 山本 義隆 / みすず書房 / 978-46220-72874

この本では、
印刷技術の普及、職人によって著された書籍の登場、
蔑まされていた外科医による現実的で有用な情報公開、
商人たちが流布した計算方法と俗語で書かれた数学書の普及と算数教育、
宗教改革、大航海時代
ナショナリズムによる自国語の発展
...
といった出来事を取り上げラテン語以外は許容されなかった「神聖なる」学問がいかにして変貌し、中世ヨーロッパにおける医学、数学、科学、芸術や哲学などのあり方がどのように変化しその要因や引き金となったものは何だったのか?が膨大な資料と史料に基づいて丹念に追求されている。
著者は、
p.29

「16世紀文化革命」はひとつの仮説であり、それが十分に論証されているかどうかは、読者の判断に委ねたい。

と読者に判断を委ねているので読み終えた読者として是非とも判断してみたいところだが、例えば反証可能かどうかといった科学的な視点が社会学や歴史学の分野においてどのように反映されるべきかなのかは、今もって社会学的にはわからないことなのだろうしましてや一介の読者が判断できることではないと思った。
けれど、判断はつかないものの当時の常識がいかにして覆されていったかをこの本を通じて知ることができたのは個人的に楽しい読書体験であったし、あとがきに記された今の科学のあり方についての著者の主張はとても斬新で貴重な意見なんだと思う。
とくに読み応えがあったのは9章と10章だった。
なぜルターの宗教改革は世間に行き渡るに至ったのか?なぜそれが可能だったに関して...
p.577

一五一七年秋に...マルティン・ルター(1483ー1546)は...「九五ヶ条提題」を発表した。これは宗教改革の発端と言われるが、それは後から見た判断で、ルターはこれをラテン語で書いたのである。

p.582-p.583

カトリック教会は、ラテン語でかかれているかぎりにおいては新発見を報じる書物でも認可し、反対に学者が誰にでも理解される国語で自説を世に広めようとすると、
ただちに告発する場合が多かった。

とあった。ルターが最初にラテン語を用いたのは賢い選択であり処刑を免れるための手段だったのかもしれない。この本を読むまでは真実に目を向けた書が彼ら(カトリック教会の人々)の標的になったのだと思っていたがそればかりではなかったようだ。では俗語で書かれていたという事実そのものがなぜそこまで彼らの怒りを買ったのか?
p.630 に、ラテン語における「文書」という単語の意味についてふれられている。

ラテン語の'auctoritas' は「信ずべきこと」と「権威」の他に「文書」の意味をもつが、文書化されていることはとりもなさず権威を有し、したがってまた「信ずるに値すること」や「信ずべきこと」とされていたのである。

この定義によると内容として権威などとは無関係の内容の書籍であったとしても、書籍になった時点で権威を有する、あるいは有する恐れがあり信ずるに値するということになってしまうのだろう。全くナンセンスな話で子供すらだませないような話だが、この単語の意味がどれだけの影響力を持っていたかを想像することは、教会が一体何を恐れていたかを理解する上で非常に重要な点だと思った。つまるところ、単語の意味づけは社会規範を決定し人の行動と言語活動を制約し、権力者たちにとってはその権力維持を持続する上で重要な手段として活用すべきことでもあったと理解できる。現在もなお、この驚くほど古びた権力維持手段を利用している国があるのはとても残念で滑稽なことだと思う。
10章後半では、ついに学問を追求する上でラテン語で書かれている必要はないと明確に書かれた書籍の紹介に至る。情報公開性の重要性と公共性について言及した文章からは、暗黒のラテン語時代の終焉を迎えようとする人々の未来への希望がひしひしと伝わってきて静かに感動した。また、現在のインターネット上での情報公開性に受け継がれているモラルの発祥のようにも読み取れるのもとても興味深かった。そして、今後、インターネット上でこれまで存在していなかったデータが公開されていく中で何かが大きく変化していく時、そのさなかにいる私たちは案外それをはっきりと認識できない可能性の方が高いのかもしれない、とふと思ったりもした。
2009.06.09 脱字修正

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