2009/07/28

Junk News

長い間感じていることを文章にしてみようと思う。

テレビのニュース番組においてどうして毎度毎度スポーツニュースが幅をきかせてるんだ?ということ。スポーツニュースのかわりに文化や芸術や科学やテクノロジーであってもいいわけだし、スポーツだけが大々的に恒久的に尊重されなければならないその理由が私にはさっぱりわからない。科学やテクノロジーのニュースだってインターネットだけからではなくてテレビニュースから情報を得ていたいものだし理想を言えばスポーツニュースのかわりに GoogleNew のテクノロジー欄をごっそりとりあげて放送してもらいたいくらい。毎日毎日。野球&ゴルフと同じ頻度で。

現状のテレビのニュース番組のスポーツコーナーっていうやつは

第一に野球かゴルフ
たまにサッカー
たまに陸上と水泳、卓球など。
オリンピックの時は別途番組を用意。

といった子供たちにとってもわかりやすい価値付けが透けて見える上に他ののスポーツは大きな大会がない限りは無視されている模様。クレームがつかない程度に。おそらくこのクレームがつかない程度にってあたりはかなり慎重なのだろーと想像できる。つまりは基本的には日本のスポーツニュースは「野球とゴルフ」なのよね。とにかく暇さえあれば野球&ゴルフ&野球&ゴルフ...略。暇なくても剣道や柔道や卓球など他のスポーツなんて二の次三の次..。いっそ野球&ゴルフにしてしまえよと言いたくなる。野球&ゴルフ。fish&chips と同じくらいジャンキーでぶり&大根みたいにどっちがメインなのかわからんといった点で負けてない。

とにかく野球&ゴルフには相当にうんざりしています。
国際的なニュースとスポーツニュースは永久に「同等な時間配分」を「与えられ」続けてるのをみるにつけ、この調子じゃクローン人間が生まれてしまっても宇宙人がとうとう挨拶にやってきたとしても、たとえどっかの国に戦争しかけられたとしても日本のテレビニュース番組からスポーツニュースが消えることはないんじゃないのか?とすら思えてくる。「おいキズキ、ここはひどい世界だよ...」って本当にそうですよ。一体こんな価値基準はどっから?いつ?誰によって?もたらされてしまったんだろう。子供から大人まで視聴者の半数が、野球とゴルフに興味ある訳じゃないってこと「すら」理解できないようなあるいは意図的に理解を拒むような石頭がのさばってるってことなんだろうか。なんだろうなあ。

以下推測。

中国で歴史的と言えるほどの人権蹂躙や大量虐殺があろうとも、世界のどこかで内紛や戦争が起きようともスポーツ枠が固定されその時間枠はいかなるニュースからも侵害されない、そこには「クローズドで真っ黒でブラックボックスな極めて利己的な既得権益を振りかざすエゴイストたちの独断と偏見と超個人的趣味にまみれた Negative Energy 」が作用してんじゃないの?。

以上推測おわり。

なぜなら人の命にかかわる国際的な問題と野球の試合の「時間配分同じ」ってどこからどう考えてもおかしいでしょ?違うかな?(違うと断言できる人たちが支配しているからこそ現状こうなんだろうけれども)しかも、しかもだよ、その野球のニュースはたいして人気があるとは思えないような野球の試合だったりするわけよ。そんなものと同じだけの時間配分って一体どういうことかしら。テレビを見る側、私からすれば野球なんてどーでもいいからトップニュースの続きみせてくれって思うわけですよ。それでニュースのはしごがはじまるんだけど、どの局も申し合わせたかのように同じ内容だったりしてがっかりする。そしてどの局もそんな日であってもおかいまなしにスポーツニュースだけはしっかりと時間確保しギラギラ報道し続けている。しかもトップニュースとしてとりあげられないままの国際的な話題も多い。

テレビ報道における「時間の長さ」は厳然たる数字として秒数としてそのニュース内容に対する「価値付け」をはっきりと顕わしていますよ。そして、それぞれのニュースに対する優先順位がその数字からはっきりと見受けられないところが問題だと思うわけです。もちろん秒数が長ければいいってもんじゃなくてプロレス実況まがいの解説とはいえなような日本語としても怪しげな「おしゃべり」をみたいわけじゃない。むろん。そりゃニュースキャスターが勝間和代さんだったりしたら相当面白くなるとは思うけども、内容についてあれこれと言う以前の段階として「時間」としてしっかりと確保されないようでは、お話にならないのでは?ということなのです。

現状のテレビ報道をみていると、報道する人たちはそのプライドをドブに捨てて判断放棄しているんじゃないかとすら思えてきます。今時、システマチックな GoogleNews だってこれほど優先度を間違えたりしませんって。(もっとも GoogleNews にはうまい仕組みがあるからなんだろうけども) だから、おい、てれび、そこには大人の人間がいないのか?と言いたくなる。だとしたら、これが当たり前なのなら相当に憂うべきことなんじゃないのかなーと。つまり国際的に重要な事件を極めてローカルな野球試合と同じ程度に扱っているとしかみえないような、その態度、その姿勢、その井戸の中の蛙っぷり、そのあまりにも安易な悪癖ステレオタイプな「選択」に疑問をもたざるをえないと感じるってことです。1つの番組の時間配分をどうするかっていうのはある意味その番組を担当する人たちのモラルがしっかりとそこに顕在化しているんだと思います。人としてのね。そう、だからこれはモラルとしての問題だと捉えるべきなのかも...。

もっとも、留意すべきはテレビ局の人たちのなにげない判断がひいてはその国の文化をどこかで象徴してしまうことに繋がっていると彼らがほとんど自覚していないかのようにふるまっているあたりかもしれない。たとえ視聴者側がそこまで意識していないとしても、です。折しもどっかの幹事長が「...国の程度を表してる」ってうっかり発言してあとでわざわざ撤回したらしいけれど、撤回する必要なんてないです。幹事長が言うとおりですよ、つまり、貴重な1票を投じてくれた人たちをうかつにも貶めてしまう発言がするりと出てくるような人物ごときが国会議員に選ばれてしまう、せいぜいその程度の国なのだと、そしてせいぜいその程度の国のマスコミなのだという意味で、幹事長はずばり図星を言ったまででしょうに。なんとも皮肉なお話ですが...。


悪しき習慣ってのは土足であがってきた居直り強盗がずっと居るあいだに家族みたいになっちゃったようなもの、とは誰が言ったか忘れたけど名言だと思う。もちろん現実には居直り強盗を家族にするなんてありえないわけだけど人の無意識の中ではおこりえてしまう、だからこそ「親しき者」なんじの名は悪しき習慣となりえる。それで悪しき習慣は良き習慣と渾然一体となって人々の無意識の中での共通認識やコモンセンスを形づくっていくのだと思う。そうやって形成される無意識なコモンセンスがその国の文化の土台を形成してゆくはず...。

だとしたら、マスコミの流すジャンク情報には相当に注意が必要なんじゃないのかな。ジャンク情報なんかは無意識領域にのさばらない程度に遮断されてしかるべき。ただ、哀しいのは潜在的無意識領域は本人にすらコントロールが難しいから「こそ」潜在意識と呼ばれているわけだからして、この時点でこれまで上記に長々と書いてきた私のアンチスポーツニュース観ですらその無意識のなせるわざかもしれないと危惧しはじめた途端に、なにかが深く沈んでいってしまいかねないことに気づいてしまう。それでも、それにもかかわらず、たまには自分なりに条件分岐によってループを止めてひとつに書き落としてみるのはよいことなんだと思う。たぶん。

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