2009/03/26

羊をめぐる冒険

羊をめぐる冒険 (上) (講談社文庫) / 村上 春樹 / 講談社 / 978-40618-36068
羊をめぐる冒険 (下) (講談社文庫) / 村上 春樹 / 講談社 / 978-40618-36075

この本に関して 蓮實 重彦氏は『小説から遠く離れて (河出文庫)』(ISBN 4-309-40431-6)の中で下記のように語っている。少し長いけれど引用してみる。

p.174
村上春樹の「羊をめぐる冒険」は、小説家を自認する人間が書いたものであるが故に小説だというだけの作品であり、....
p.174
村上春樹をも含めてこうした作家に欠けているのは、書くという実践的な体験としての物語的冒険にほかならない。書くことが冒険であるのは、そこに根拠が決定的に欠けているからなのだが、多くの小説家はその無根拠を直視しえず、「宝探し」といった物語に書くことの根拠を仮託せずにはいられない。そのとき、彼らにあっての執筆は技術の問題にすり換えられ、それを統御する術をどの程度心得ているかということだけが、面白さを決定しているということになってしまう。そこでの言葉は、震えてもいなければ、動脈を伝えてもいない。
だから、人が彼らの長編で触れうるものは、言葉ではなく、物語の普遍的な安定性ばかりである。そして、そうした体験しか許そうとしない小説を、われわれは退屈な作品だと自信をもって断言することができる。

書く根拠がない->宝探しに仮託->動脈が伝わらない->退屈
なるほど。蓮實氏にとって「羊をめぐる冒険」は退屈だったらしい。ところで、書かれるべき根拠があったら、読者を退屈させない保障でもあると言いたかったのだろうか?この場合の根拠って何?何をもってしたら根拠だといえる?それが仮に存在しえた場合、それはどのように説明できる?その根拠の有無を決定するのは一体誰なのさ?例えばトルストイの「戦争と平和」は「書く事が実践的な体験としての冒険物語」か?この疑問に蓮實氏は回答を持ち合わせているのだろうか?ここで「戦争と平和」を「聖書」に置き換えてもいいしシェークスピアの「オセロ」に置き換えたっていい。一体だれがそんなことを説明して断言できる?仮にできたとして、それは小説以上の価値をもつのか?

ところで、私はこんな子供同士の言葉のあげあしとりじみたことを列挙する必要はある?

そんな必要はどこにもない。と思う。実は根拠の不在とは、蓮實氏自身の感性の欠落、少しいい方をかえると、世代の限界によって引き起こされて当然の「未知の感覚」なのではないかと疑っている。どの世代にだって特有の感覚はあるんだろう。戦中生まれの人々が共通に感じうる特定の感覚はその後の世代の人間にとっては未知だし決して獲得できそうにない。こんなことはどんな世代にだってありえると思う。ただそれだけのこと。ただそれだけのことなのに...。

「インターネットを使うようになってから世界が二つにわかれちゃったように感じる。」知人がある日の電話でこんなことをつぶやいたのを思い出す。それはインターネットが普及しはじめて何年かたってからだった。いまどき、たとえ同じ世代であったとしても、共通の感覚をあわせもつ保障なんてどこにもない。おたがいがお互いの間にある溝の暗さをただぼんやりみているに過ぎない。それは自分自身の心の闇をのぞいてるかもしれないという何か得たいの知れない感覚を伴っている。知人が言いたかったのはそんなことだったとおもう。

「羊をめぐる冒険」の主人公に対して何かしら感情移入したかしなかったでこの本に対するイメージは180度変化する。蓮實氏にはそのような感情移入はなかったと推測できるのでそういった人は他にもいるのかもしれないが、少なくとも私は感情移入したし心が震えた。あの本の主人公は、本に書かれていないその後に自殺したのではないか?などとくだらない春樹談義に盛り上がったほどだ。当時、私もまわりの人間も村上春樹にぞっこんだったしそれだけ心が震えた小説だった。これは一読者の感想にすぎない。あたりまえだけども。
最近では、テレビがつまらないって話題をテレビが伝えてくれるほどに、マスメディアもなにかの力におされてる。そんな中で生き残っていく本って何なのか、それはなぜそうなのか?をちらりとでも考えるのは、これはこれで面白いことなんじゃないのかなと思う。

# 2009-05-16 category 変更 タイプミス修正

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